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途中からだったのですが、印象に残ったことを少し。
性暴力がどうしてこんなにも多いのか、そしてあまりに社会の問題意識が乏しいのか、などを考えているのですが、
どうしても日本人の根本的な価値観というものがやはり絡んできます。
もちろん日本だけではないのですが、特に日本的だなとやはり思うことも以下の中にはあるのではないかと思っています。
いろいろな言葉で表現できるとは思いますが、
・個人の意思を尊重しない
・多様性を認めない
・「権利を主張する」ことをよしとしない
・曖昧ですませる、なあなあですませるのが大好き
・「マジョリティが考えるであろうこと」にあわせた言動をすることを求められる
・「我慢は美徳」という考えが根強い
・過ちをすること、不完全であることを認めない
そしてこれを支える背骨となっているのが、家父長制です。
ジェンダーとイエ意識、「母性」信仰社会にも深く結びついています。
ところが「保守」とされる人々は、それを良しとして維持したがるので、いろいろなことがずれてきているわけです。
家父長制と一言では言い切れないくらいの様々な抑圧や差別は、もう文化となり私たちの意識に刷り込まれています。
私にももちろんあります。日々それに気付かされ考えさせられます。
幼い頃から次のようなことを刷り込まれていきます。
年長者、男性の言うことをきけ、
男性は優れている、女性は劣っている、
男性は社会に出て活躍、家事や育児をするのは女性に向いている、
男性は強くリードしていかなければならない、女性は優しく周囲にあわせなくてはならない、
などなどです。
いろいろな「べき」「べき」論があるわけです。
これは結局、弱い立場の人、少数とされる人への抑圧へと結びつきます。
性差別の問題だけではなく、さまざまな差別と共通しています。
イエ制度を信奉するあまり、虐待やDVなど家庭内のことにはノータッチで、
「日本には虐待はない、しつけはある」なんて怖ろしいことを言い不介入。
「馬鹿な女をしつけてるんだ、教育してやってるんだ」と言いDVをする。
(そもそも男性にとって都合のいい妻のことを、ふしぎと「いい奥さん」という表現がまかりとおっています。
これはDVの始まりでしかないので、誉め言葉として使うのは変でしょう。)
まだまだ、本当にまだまだ、全然、虐待もDVも対応できていない。
社会全体で救おうという体制になっていない。
性暴力なんて「ない」ことにしたいわけですから、まともに取り組もうとさえしない。
(それでも、昔よりは少しずつ少しずつですがよくなっていて、ようやくここまできた、というのは事実です。)
それを維持したいのは、これで利益を得ている人たちなわけで、
これを打破したいのは、思いっきり不利益を被っている人なわけですが、
権力のあるところには、維持したい人たちばかりです。
番組では、
「察して動け」は甘え、
自分の意見を主張することをしていくことが求められる、
などと放送していました。
こういったことを「言語力」という切り口で捉えて、グローバル社会に対応できない、という焦りを強調することで、聞く耳を持つ人もいるのか、というのが新鮮というか、ショックというか・・・。
個人的にはそういった意識がつくられる背景にもっと迫ってほしかったと思います。
ジェンダーやイエ意識など。(でもそうすると聞く耳を持たない人ばかりなのだろうと思います)
結局、上のものにあわせて動くのが求められていて、それが普通とされていて、そしてそれに疑問を持たない人が実際に多く、大多数とされていく世の中。そういう流れをつくられてしまう世の中。
本当はどうかわからないのに、考えたり疑問を持ったりすることさえ許されず、マジョリティ意識をつくる。
そこからはみ出るヤツは叩いて構わない、という意識を無意識につくられている社会。
出る杭は打たれる、というのがまかりとおっているわけです。でも人間はモノではない。杭の一つになって揺るがないモノをつくる(何のために?)ことが目的なんて、怖すぎます。
多様性を大切にしない、というのが、マイノリティ、少数とされる人たち、例えばしょうがいを持った人に対して優しくない世の中になっていると思います。
被害者もしかり。性犯罪被害者はいろんな抑圧をされる。
このエントリは、昨日、他のテレビを見ていて、思うことがあったので、それにつなげて書こうと思ったのですが、深遠なるテーマで、私の言葉が追いつかない。
とりあえず、考え続けることが大切なのだろうと思うので、メモ代わりにアップしておきます。
追記:番組の内容はこちらのサイトを読まれるとよりわかりやすいと思います。
■50代オヤジの独言■ 追跡AtoZ:言語力
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100201/1264999862
こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
限界を感じる、そして行動する
- ジャンル : 心と身体
- テーマ : 心と身体のケアを大切に!
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100129/1264745707
性暴力被害特集 : NHK教育「ハートをつなごう」
- ジャンル : 日記
- テーマ : みんなに知ってもらいたい
放送時間
1月25日(月)、26日(火) 午後8時〜8時29分
再放送
2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分〜1時49分
予告のハイライトで父親から性的虐待を受けた方のインタビューが
少し放送されたそうです。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/より転載
性暴力被害
教育テレビ 1月25日(月)、26日(火) 午後8時〜8時29分
再放送 2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分〜1時49分
『ハートをつなごう』ではこれまで摂食障害、自傷癖などさまざまな依存症に悩む人たちの声を取り上げてきました。
その背景には何があるのか。生きづらさを切々と訴える多くのメールにある共通項があることに気付きました。
それは“性暴力被害”の経験があるということです。
“信頼していた友人からレイプされた。”
“子どものころ、父親から性器を触られた。”
“職場の上司から毎日、セクハラを受ける。うつになった…。”
最近の調査だと女性のおよそ8割が被害を受けた経験があると言われています。
男性も決して少なくないそうです。
被害を受けた人たちは何に苦しみ、何に悩むのか。
彼女・彼らを支えるために何が必要なのか。
二日にわたり、勇気を出して出演してくれた4人の被害者の方たちと話し合います。
※お寄せ頂いた声を元に、2月下旬に反響編を放送する予定です。(1/26追記)
https://www.nhk.or.jp/heart-net/form/hearttv.html
からメッセージも送れるようです。個人名など必要なようですが(仮名じゃだめなのかしら)。
↓に一部引用しました。 ※詳細は上記サイトをご覧ください。
性暴力被害は女性の8割、男性も2割が受けたことがあると、それぞれ調査があります。
特別なことではない、とても身近な、そして傷が深く長く残る体験です。
さらに、誰にも話せず、一人でかかえこむことが多いといいます。
そこで番組では、性暴力被害にあった方や側で支える人の体験を募集しています。
どのような被害を受け、なにに悩み、どのように傷と向き合ってきたのか、聞かせてください。
性暴力被害はセクハラや痴漢、レイプなど性的に嫌だと思った体験を言います。
例えば…
「子どものころ、知り合いの男性から性器を見せられた」
「高校生のとき、電車の中で痴漢にあい、通学経路を変えた」
「上司や同僚からセクハラを受け、耐えきれなくなり退職した」
貴重な情報を、コメント欄でMARU様からお知らせいただきました。
MARU様に心より感謝いたします。
私も見ようと思います。再放送の日になってしまうかもしれませんが。
ご覧になられた方、感想など交換できると嬉しいです。
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100125/1264410433
こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100124/1264318687
こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
性犯罪の公訴時効に関して
- ジャンル : 日記
- テーマ : みんなに知ってもらいたい
取り上げたのはNHKと東京新聞のみです。
「置き去りにされている犯罪被害者 ― 性犯罪被害者」のエントリで書いたように、
性犯罪を裁判員裁判の対象にする割には模擬裁判さえしていない状態で組み込み、そのわりには時効に関して全く置いてけぼりで、また置き去りになっているわけです。
心身にこれだけダメージを与える犯罪にも関わらず、とても適当な扱いで、重大事件として扱ってないのです。
公訴時効に関してはパブリックコメントも募集していたので、なんとか書いて出したかったのですが、
わたし自身、時効に関してうまく考えがまとまっていないのと、個人では名前電話住所等が必要なのと、時間的な制約や心身の不調もあり、ほんとうに残念ながら無理でした。
私の心身への影響、人生への影響という点で考えると、被害の影響が完全に消滅するというのは難しく、性被害を受けた自分を完全に捨てることはできず、そういった悲しい面と共存していくしかないのです。
ただ私は、形としては刑事裁判という形で、はなはだ不本意ではあるものの判決が出ているので、時効について本当の意味で語れないと思います。
犯人が捕まらず時効を迎える。犯人が誰かさえ分からない。訴えたいと思ったときにはとっくに時効で納得いかない。
そういった声を多く聞きます。
できればそういった声を反映させたかったのですが、自分の言葉で語れず、またどなたか窓口になってくれる方を探す気力もなく、時間切れとなってしまいました。
今回の公訴時効の件で、残念ながらひとりでは限界があるな・・・とつくづく思いました。
それぞれ経験も思いも違うとは思いますが、わかちあって、支えあって、いつか要望書やパブリックコメントなど出せるようになりたいと思っています。
できる人が、できるときに。無理のない範囲で。
あまり拘束力がない、したいときだけ参加するというようなグループをつくれないかな、と思ったりしています。
やはり当事者の声というのは大きいようですから。
伝えていきたい気持ち、経験。きっといろいろな思いがおありだと思います。
今回の公訴時効にかぎらず、お話したいことを、お話したい分だけ、
教えていただけるととても嬉しいです。(もちろん個人情報は伏せてください)
あちこちで言われて、そして多少実感もしているのですが、たしかに無理をすると倒れます。
歯がゆいですが、ゆっくり進んでいくしかないというのは本当なのでしょう。
被害者当事者の声を届ける体制作り。
これを目標にしたいです。
東京新聞の記事を以下に載せますのでご覧下さい。
(画像アップロードのやり方がわからず見づらくなっていて申し訳ないです)
※2度クリックすると見やすくなります。

別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100120/1263963642こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
加害者にとっての“オンナとしての魅力”が同じでも、彼らは自分より上の立場の相手には、セクハラをしない。
それと同じように、
性虐待も、上下関係を利用して起きる。
身近な大人。
家族はもちろん。指導者、つまり教師やなんらかの教える立場の講師・コーチ。近所の人。親戚。
聖職者による犯罪も、実は日本でも多い。
もちろんこども同士の性犯罪もある。
残念ながら身近な人物こそ危険だという認識を持つべきだ。
虐待家庭や、ひとり親家庭。
なんらかの事情のある機能不全家庭。
性被害を受ける被害者には、そういう背景を持つ人がとても多い。
それは、そういう背景があると、加害者がとても近づきやすいからという側面もある。
口実として二人きりになることがとても容易だ。
何か問題があると当然悩みもある。
職業としては、ふだん関わらない人も関わることになる。カウンセラーや医者、弁護士、行政職員、施設職員など。キリがない。
そういう事情につけこみ、二人きりになる状況を容易につくりだすことができる。たとえば教師による個人面談など。
本気で心配しているように見えて、そして途中までは本気で心配していても。―計画的なのが殆どだとは思うが。
最初からか途中からかの差はあっても。性の対象として見る大人が多すぎる。
特に、なんらかの暴力を受けて育ったこどもは、めまぐるしく変化する暴力加害者を知っている。
優しい時もある加害者を知っている。
だからこそ混乱する。
そして、自分の感情を否定されて育ってきたために、自分を大切に思えていない。
自己肯定感が低い。自分の感情を尊重されたことがほとんどない。
だからこそ、自分の感情を感じとることも、直感を信じることも、とてもむずかしい。
(これは大人でも同じで、そういったことができるようになるには、訓練が必要だ。)
そういう訓練が不十分なのに、身近な大人だからといって、職業だけで判断して頼るのを推奨するのは極めて危険だ。
たとえ優しい人に見えても。
優しい人だと思っていたのに、実は性虐待者だったということに陥ることが多い。
そして、加害者の巧妙な操作により、口止めされる。
自分は愛されているのだと思わされたり、特別な存在だと言い聞かされたりもする。
もしくは、自分には何か嫌なことをするけれど、多くの人に信頼され慕われているのを見ると、自分が間違っているのかという意識に捉われる。
それこそが加害者の狙いで、他の人の前ではいくらでも「ふつうの人」を装うことができるのだ。
愛情にうえ、愛されていることを欲していること、を利用されて近づかれることも多い。
愛されたいと思うのは悪いことではないのに、それさえも被害者のせいにされてしまう。
性の意味がわかっていないことを利用され、
されたことの意味がわかるころには、加害者はもうそこにはいない。
身近な大人だからといって、無条件に、教師や指導者の立場の人物を信じるのは無謀に等しい。
なんの審査もなく教師になっているのだ。(他の職業にも言えることだが)
彼らは、こどもに近づきやすいからという理由で、そういう職業に就いている。
真面目な人物とそうでない人物を見極めるのは難しい。たとえ人生経験の豊富な大人でも。
まさかあの人が。そう思われる人が性虐待をしている。
同じ人物が、何十年も。
訴えれば被害者が困ることを利用し、発覚しにくい状況を利用して。
教師による犯罪が多すぎるのは当たり前だ。
特に、こどもに対して性的な感情を持つことをタブーとさえせず、後押しする文化があり、その傾向は年々高まっている。
最近、教師による性犯罪があとを絶たないということで、東京都が、教員免許発行時に、犯罪歴について書面で提出することを義務付けることを検討しているということを知った。
今までしてこなかったこと自体がおかしい。発行するときだけでなく、毎年チェックをしてほしい。
もちろん、全都道府県で。
法曹も、医者も。全ての公務員も。それこそ、挙げていけばキリがないけれど・・・。そうすることで防げることも多いはずだ。
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100104/edc1001040131000-n1.htmより転載
刑罰歴の審査を厳格化へ 教員免許発給で都教委
東京都教育委員会が教員免許を発給する際、過去の刑罰歴の有無について本籍地の自治体が発行する公的な証明書の提出を求める検討に入ることが3日、分かった。昨年、執行猶予中の男性(25)が不正に教員免許を取得し、大田区の区立小学校で臨時教員として学級担任になっていた事案を問題視した。教員免許発給時には過去、禁固刑以上に罰せられたことがないとする宣誓書の提出が求められるが、真偽は申請者の自己申告のため、都教委は審査の厳格化を図りたい考え。都教委によれば、制度が導入されれば全国初。
横浜市でも昨年4月、女子中学生の着替えを盗撮して逮捕された同市立中学の男性教員が、採用試験を受けた平成14年に別の性犯罪で執行猶予中だったことが判明。関係者によると、大田区の男性臨時教師も性犯罪で執行猶予中だった。
教員免許は一般的に大学の教育学部などで教職課程を修めると都道府県教委から発給される。教員免許法では禁固刑以上(執行猶予中を含む)に処せられた者の取得を禁じているが、過去の刑罰歴は申請者の自己申告で判断され、「性善説による発給制度を改める以外に対策はない」と関係者は指摘する。
都教委では現在、正教員採用候補者選考の合格者にのみ、本籍地の市区町村から刑罰歴を記載した証明書を提出させている。しかし、男性のように臨時教員や非常勤講師の経歴詐称は見破れず、今回の問題も男性が10月に正教員候補者選考に合格して露見した。
臨時教員は、病欠や妊娠出産などで学校を休む教員の穴埋めのため短期採用されるケースが多いため、時間的制約から「採用時に煩雑な手続きを行うことは現実的でない」との声が大勢を占めているという。
20年度の教員免許発給数は都内で4万1614人。都が発給した教員免許を“証明書”に塾講師や家庭教師をする者も多い。学校以外でも類似の問題が起きた場合、都教委の教員免許への信頼性が揺らぎかねないとの指摘もあり、幹部は「都が全国の先鞭(せんべん)を付けるべき」としている。
高橋史朗・明星大教授は「団塊世代の退職に伴う穴埋めのため、臨時教員、非常勤講師を大量採用しないと学校が回らなくなっている。そのため臨時教員や非常勤講師の採用が野放しともいえる状況で、質の低下は否めず、今回の問題も起きた。教員免許の発給を含め、何らかの新しい対策が不可欠だ」と指摘している。
※このエントリは、教師による犯罪を主に念頭において書いたので、カバーしきれていない不十分な点があると思います。不快な思いをされた方には、申し訳なく思います。いま、余力があまりないです。
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100119/1263869669
こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方のみに限定させていただいています。
他にもアクセスする可能性のある場所というのはあるのだけれど。
そういった人たちのレベルの低さにうんざりする。
かなりストレスフルだ。
被害者であることを特に言っていないのだが、他国のデータを「こんなに多いはずないよね」と平然と言っている人を見ると唖然とする。
内閣府のデータも見ていないのだろう。
そういった人は、言っては失礼だが、勝手なきめ付けで申し訳ないのだが、
セクシャルな対象とされて困った経験がないのだろうと思う人に多い。
そんなひどいことが起きているのか、という驚きは、現実をつきつけてもなお、否定したがる人が多い。
すぐとなりに被害者がいる。
その可能性にすら思い至らないのだ。
よほど「私は性被害にあっています」といおうかと思うことが何度もある。
だんだんと、世間の無関心、興味関心を持ちたくない人に、苛立ちを感じる。
性被害の事実を知るつもりもないのなら、女性問題に関わっているのは何故だろう。
結局は自分の心に向き合えていないのだ。
DVくらいならできるかしら。
そういう意思が透けて見える。
本気で女性問題に関わるつもりならば、性暴力の問題は避けては通れない。
その覚悟がないのなら、その仕事をやめればどうかとさえ言いたくなる。
被害者であることをあきらかにしないと、事実を伝えても、「貴方がそう思うのを押し付けてはならない」となる。
被害者であることをあきらかにしても、こういう人たちは「たいへんだったのね」と表面的な寄り添いで終わりだろう。そして「どう接していいかわからない」と、煙たがるようになるのが手に取るようにわかる。
なぜなら本気で関わるつもりがないからだ。
同情なんていらない。
ただ事実を知ってほしい。
できれば一緒に考えてほしいけれど、それが無理ならば、せめて事実を受けとめてほしい。
それを言っても、そういう人たちはきっと「被害者最強」「被害者だから恨みつらみが激しい」と言うだけだろう。
私の前では言わないにしても。
そう言いたくなる自分の気持ちに向き合えていないのはどっちなのか。
知りたくないものを否定し、そして見てみぬふりをしてきた罪悪感からか。
相手がより正確な情報を知っているということへの嫉妬からか、自分が上に立ちたいというプライドからか。
被害者は弱い存在なのだと決めつけ安心したいからなのか。
無関心と否定は、実は、隠蔽に加担しているのと同じだ。
それを痛感し、どうしたらいいのか、私は頭を抱える。
本気で話せば分かってくれる人も中にはいる。
セクシャルな対象とされたことのない人はわからないかもしれないが。
(どうもそういう人は、セクハラ=モテ意識、というものが見え隠れしてしまう)
たぶんこの人は何らかの性被害を受けている、という方も中にはいらっしゃる。
性暴力の支援者の中には、性的な被害の当事者の方も実は多い。
とはいえ、女性はほぼ誰でも性被害をなんらかの形で受けてはいるのだが。
だが、表立ってはそう声をあげない。
今の私のように。
ああ、私はどうやって進んでいけばいいのだろう。
結局は立場を明らかにしないとまともに聞いてもらえない。
でも、そうすることで失うものが多すぎる。
一線を画されてしまう。
加害者が刑務所にいる間にだけ、たとえば生活圏でないところで話をしにいく、ということも考えた。
私は被害に遭ってから、回復してきた今でも、
どこか人とのかかわりの中で、一線をひいてしまっている自分に気付く。
結局はひとごとだから。
ほかの人にとっては。
それを目の当たりにされるとつらいのだ。
苛立ちは、無関心な世の中に対して感じることで、より増幅される。
性暴力を滅多にないものとしたがる人たちは、性暴力被害者を「とても珍しい不運な目に遭った人」として、断絶することで自分を保とうとしている。
そういう人にいくら一生懸命言っても、相手が感情的になるだけだ。
私は自分の気持ちではなく、事実を伝えている。
それすらも、そう受け止めてもらえないのなら、どうすればいいのだろう。
自分のためではなく、他に傷つく人を増やしたくないだけだ。
自分におきたことはもう、どうしようもないのだから。
とても孤独を感じる。
きっと一生、この孤独感はきえないのだろう。
そういう自分とうまく付き合っていくしかない。
女性問題に関わっている人に対して思うことを書いたので、「女性問題」としていますが、性暴力は性差別によりおこるものだと私は思っています。
男性性被害も、性差別ゆえに、ないものとし消されてしまうのだと思っています。
本来、性暴力は、男性サバイバーからのメッセージで
HEART様が「性犯罪者は職業選択の時点から計画的であり、回避できない場所と相手を選び立場を利用して行われる理性的なものであり、性犯罪は男女の問題ではなく人間対人間の問題だと理解すべきだ」
と語ってくださったように、
人間の問題、社会の問題なのです。
性犯罪は、社会的な犯罪です。
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ゆずれないものを守る
- ジャンル : 日記
- テーマ : みんなに知ってもらいたい
両方を守ることは、簡単なようで、実はとても難しい。
痛みはその人のもの。
その人にしかわからないもの。
他人がその痛みの軽重を決めることはできない。、
他人が決めるとき、その人の痛みがその人の痛みでなくなり、ただの押し付けになってしまう。
怒りを感じることと、怒りを表現すること、ぶつけることは違う。
怒りは状況を変えたいという前向きなエネルギーであり、悪い感情ととらえる必要はない。
罪悪感を感じることもない。怒りを感じるのが当たり前の状況は、たくさんある。
そして、怒りの裏には、実は、悲しみ、不安、焦り、恐怖、寂しさ、などの感情が隠れていることが多い。
それを感じとれると私は少しは楽になるのだけれど、そんな余裕さえなく反応してしまうことがまだまだ多い。
反応ではなく、対応をする。
これはとても難しい。
人間ができていない私には、怒りをぶつけず相手を責めないよう心掛けていても、ついしてしまうことがあるのだ。
人を傷つけたくはないのだけれど、きっぱり線をひかなければならないとき、ついきつい口調になりがちだ。
相手がかっかしているとこっちもかっかしてしまったりして、結局泥仕合、ということもあった。
なれていないので余計にむずかしい。
失敗を重ねながら、学んでいく。四苦八苦しながら、学び続けていくのだろう。
そして間違いを認める権利ももちろんある。そしてそれは義務ではない。
そういうことを実感すると、私はだけれど、自分の気持ちに素直になれた。
怖がらずに感じとれるように少しずつなったということだろうか。もちろんまだまだだけれど。
I メッセージで話すことの大切さ、というのは、まさにこれを言っているのだろう。
私はこう感じる、と、自分に焦点をあてる。相手ではなく。
同じことを言っているようで、大きく違う。
相手を主語にするとき、それは決め付けであり押し付けになってしまいがちだ。
「私は・・・だ」と感情を語るとき、その感情を否定することにつながりにくいが、
「あなたは・・・・・・だ」には、「私は・・・・ではない」という反発がかえってくる。
相手の立場に立って考えると、当たり前のことでもある。
決め付けることは、感情ではなく“考え”。「あなた」ではなく、「わたし」の考え。
「あなたは・・・・・・だ」
「あなたの言動は・・・・・・だ」
の
「・・・・・・」には、「わたし」個人の考えが入ってしまう。主語は「あなた」であるのに。
それは一般的なものと思っていても、その一般的とされる価値観自体、「そういうものだ」とマジョリティの巧妙な策略により、そう思わせられているだけかもしれない。
価値観とは、自分にとってゆずれないもの、守りたいものだ。
そしてそれは、人それぞれの経験によってつくられていくものだから、まさに個別的なものだ。
でもそれが自分の価値観として語っているつもりであっても。
自分の内面が欲しているものに気付かず、“こういうものだ”と信じ込まされているマジョリティの価値観の形をとって語ったとしても。
どちらにしても「・・・・・・すべき」という押し付けになってしまう。
「あなたは」が主語なのに、「・・・・・・だ」というところに、自分の考えが反映されている。
それを押し付け「・・・・・・べきだ」となってしまうとき、それは相手を自分の思い通りにすること、支配することにつながってしまう。意図していなくても。
そして“一般的な価値観”というのは、マジョリティに都合よくつくられたものになっている。
マイノリティの存在を認めず、個人を大切にしない文化であればあるほど。
わがままなことと、限界を設けることは違う。
なんでも無防備に引き受けることは、搾取されることと等しい。
納得しているつもりでも、本心からでなければ、いつか心は疲弊し恨みがたまる。
その疲弊さえ感じないよう洗脳することが、気付かないうちに小さい頃から社会構造として行われている。
儒教的な価値観であるイエ制度、家父長制、母性信仰という形で。
自分にできることとできないことを見極め、限界を設ける。
限界を超えた要求をされたら、「NO」と言うことが自由にできる世の中になってほしい。
自分を攻撃する相手にまで我慢して身を差し出し、犠牲となる必要はないのだ。
感情にいいも悪いもない、「正しい」感情なんてない。
それを初めて聞いたとき、目から鱗が落ちたような気がした。
上述したように、怒りの感情の裏には、悲しさや寂しさ、恐れなど、さまざまな感情が隠れていることが多いとも知った。
怒りは、今の状況が嫌だという気持ちの表れでもあり、変えていきたいという前向きな力にもなる。
そしてそれはそのとおりだと思う。
思うに、怒りの感情とうまく付き合うことが、わたしたち日本人は特に下手だ。
こんなことで怒ってはいけない、みっともない、大人気ない・・・そういったメッセージに囲まれて育つ。
自分の感情を大切にしてもらえない。
育てる側が自分の気持ちを大切にしていないからだ。
怒り方やその度合いまで、周囲が決めたものでしか認められない。許されない。
自分の感情をあるがままにストレートに表せない。
小さい頃から、何か違和感を感じても
「そういうことは言うもんじゃない」
と、親から、年長者から、指導者から・・・・・様々な「上」の人間たちによってたしなめられる。
そして、自分の感情が信用できなくなる。
自分の感情より相手の感情を優先することが美徳とされる。
それは実は、大人たちにとって、上の人間にとって「都合のいい」人間をつくられているのと同じなのだが、それは巧妙に隠される。
つまり支配であり抑圧なのだ。
「我慢は美徳」という、つくられた一般的に共有されてしまっている価値観は、極めて支配者に都合のいい手段だ。
たとえば、「いい奥さん」という言葉に反映されるように、社会構造として支配者である方に、被支配者は「都合のいい」ことが美徳とされているのも、いい例だ。
我慢は美徳、という日本の意識そのものを変えていき、自分はかけがえのない存在と認識すること。
これは重要なことだ。
そして、かけがえのない存在というのは、弱くてみっともないところも含めて、という意味であり、
ただむやみに自分を崇拝し自分を尊大な存在と思うこととは違う。
それは単なるうぬぼれであり単なるナルシズムでしかない。自己愛は、失敗体験を認められず、失敗から学ぶこともできず、自分は悪くない相手が悪いという思考しか生み出さない。
それと自己尊重とは違うのだ。
日本人は、議論というものを小さい頃からしない。
議論の習慣なく育つので、NOを言うことにも言われることにも慣れていない。
NOは、一部に対してNOであり、全否定ではない。
でも、それが全否定のように、宣戦布告のようにとられることが多い。
私にとってはNOだけれど他の人にとってはNOでないかもしれない。
とはいえ、譲れないところにはNOはやはりNOである。
それは信念であり、揺るがせないものだからだ。絶対に譲れないもの、価値観なのだ。
だからといって、全ての人にとっても、あなたにとってもNOであることを強要しない。
自発的に納得し自分の考えに賛成してくれるのなら、とても嬉しいけれど、本心では納得していないのにとりあえず表面上は合わせられると、なんだか馬鹿にされているような気がしてしまう。不安にもなる。
同情なんていらない。理解しよう、知ろうとしてくれることが一番嬉しい。
被害者はかわいそうな存在だから同情しろ。
被害者の言うことに対しては全て支持しろ。
そんなことは私は思っていない。
あまりに守られすぎると、なんだか落ち着かないくらいだ。
納得できなければそれでいいのだ。
それぞれの考えを大切にしてほしい。
ゆずれないものを、この人は傷ついているからあわせてあげようと抑えると、それがたとえ表面上であっても、いつか疲れてしまうと思う。
その結果、いつか大きく決裂したりするほうが、私はずっと悲しい。
それまで本気で向き合ってくれずごまかされていたような気持ちにさえなってしまう。
でも、これさえも、私の願望であり私の希望なので、それを相手に押し付けることはできないし、したくない。
ただ、私はこう思っています、と伝えることしかできない。
被害者の話を全て支持する必要はないし、
被害者のいうことを理解してくださるからといってその全てを支持する必要もない。
理解してくれる方々が皆すべて足並みそろえる必要も当然ない。
実際に、理解があると私が判断している人たちの中にも、いろいろな立場の人がいるし、反発しあっている人たちもいる。
でもそれは彼ら彼女らの間の問題であり、私がどうこういうことでは、もちろんない。
もちろん被害者同士だっていろいろな立場があり考えがある。
いろいろな人が発言しやすいような環境ができればいいなと思う。
全ての人が全ての考えを一致し共有するというのは、どんなに少ない人数であっても、無理な話だ。
たとえ似通った経験をしていても、難しい。それは身を持って経験している。
それはカルト集団のようになってしまい、怖いことでもある。
そういうことは私は望まない。
いろんな人がいろんな立場から発言している中に、でも私はこう思う、ということを構えずに伝えていきたい。
そして、それはその人に対する全否定ではないので、そこを気をつけながら伝えていきたいと思う。
そうすることで、では私はこう思う、とまた別の誰かが発言しやすくなればいいと思う。
無理のない範囲で、できれば構えずに応答してほしいと思う。
どこで食い違いがあるのか、おたがい知らない情報もあるだろうし、そういったことを意見交換していくことで、どうすればいいのか、新たな視点が開けることもあるだろう。
思いっきりマイノリティの立場であると自覚している身としては、ほんの一部でも、理解してくれるだけで、考えてくれるだけで、知ろうとしてくれるだけで、とっても嬉しいのだ。今まではそれさえもできなかったのだから。
特に、その人の核となるような信念であったり、よりどころとしている政治的な信条であったり、いろんな立場の人が大切にしているものを否定し、その人を変えていくということは考えていない。
どうすればもっと知ってもらえるのか、理解してもらえるのか。
あなたのゆずれないところを大切にしてほしい。その上で、できるときに、できることをしてほしい。
ときおり休みながらも、私は情報を発信し続けるから、気が向いたときにでも読みに来てくれると嬉しい。
耳を傾けてくれるだけでも、私にはとっても嬉しいことなのだから。
いま、ここに書いたことは、まだまだ私もできていないことだらけだけど、
頭に少しでも入っていることで、生きやすくなったのを実感しているので、書いておこうと思った。
私はこう思っています、という意思表明でもあるし、気をつけていこうという自分への戒めでもある。
こういったことを教えてくれた本や、実践している方々に感謝してやまない。
たくさん人に傷つけられたけれど。
そのぶん、人のありがたみがわかった。
人と少しずつでもつながることの大切さがわかった。
マイノリティであることを自覚している身としては、ほんとうに、少しでも理解してくれるところがあれば嬉しいのだ。
だから、人と関わり続ける限り、生きていく限り、難しさにふうふうしながらも、少しずつ進んでいきたい。
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・わかってほしい気持ちの行方
別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100114/1263411583
こちらは、性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
毎年この時期、私は不安定になる。
ここ数日は、人が多い場所を通るのが嫌で、ひたすら家にいる。
そう、明日は成人の日。
綺麗な振袖を着た若いお嬢さん、スーツだったり服装はいろいろだけれど若い男の人ももちろん―たくさん見かける日。
見るのは辛い。
手に入らなかったもの、だから。
服装だけでなく写真でもなく、そういったものが象徴するもの、が手に入らなかったということをまのあたりにされるから。
でも、よかったね、とも思う。
あなたたちは、愛されているよ、と。幸せでいることを羨みながらも、よかったね、と思う。そのまま幸せでいてほしい。
もちろん複雑な事情がある人もいるのだろうけれど、きれいに振袖を着て、ヘアスタイルを整え、なじみの友人たちと盛り上がっている人たちは、きっと愛されている環境の人が多いのだろう。
誰もお祝いしようとしてくれないのに、あえて全て自力で手配し、実際にしたよ、という人は、私の知っているごく狭い範囲の話になるが―いない。
それまでもずっと
「誰のおかげで食べられると思ってる」「誰のおかげで学校に行けると思っている」
「小学生でも新聞配達している子だっているんだ」「中学を出て働いている人だっているんだぞ」
と言われ続けていた。
これは「お前なんかの為に」という意味を含むので、絶対にこどもに対して言ってはいけない言葉だ。
こどもをつくったのは親の考えでおこなったことであり、きょうだいをつくったのも自分たちであり、こどもを養うにはお金がかかるのが当たり前だ。
こどもは自分はいてはいけない存在なのかと、ひどく自己肯定感が低く育つ。
決して贅沢はできなかったけれど、
(たぶん収入としては一般より多い家庭だったと思うが、なにしろ一人で稼いだつもりで一人であぶくのようにお金を使う人が私の父親だった)
それでも、人並みの生活はさせてもらっていた。物理的に、という意味だけれど。
ただ、私はひたすら我慢し、手間もお金もかけさせてはならないということをひたすら考えていたので、ほかのきょうだいに比べて簡単に必要なものを親に言えない子だった。多くの子が親に送り迎えしてもらう場合でも、二時間くらいなら地図を見て、歩いて行っていたり帰っていた。
それでも、傍目からすると、周囲の友達と大きく差をとるようなことはなかった。そのかげには私のたったひとりの努力と忍耐があったのだけれど(そして忍耐しているという自覚さえなかった)。
それは確かに恵まれていたと感謝すべきことなのかもしれない。
でも、自分にはないのだ、ほかの人がもっているものをもたないのだ、
ということを、はっきりとした形で突きつけられたのが、
成人式というイベントだった。
うえのきょうだいのときは、親たちは張り切ってずっとずっと前からいろんな情報を集め、振袖をあつらえ、写真を撮り、それをあちこちの親類に配っていた。
自分にもそうしてもらえると思っていた私はきっと甘かったのだろう。
自分も同じように愛されていると―そう信じたかっただけなのかもしれない。
ひとり、自分の親にも他のきょうだいにも気を遣い、家事をこなす私は、きっといつのまにか、「家族」からいちだん低い存在になっていたのだろう。
「お手伝いさん」であり、「言うことをきく便利な存在」であり、軽んじても不満を持たない存在、となっていたのだろう。そして、言うことをきかないということは許されないということに自然とつながっていっていたのだろう。
私の気持ちを大切にされたことなど、なかった。
今も、ない。
うちのなかできつい思いをしていることは限られた友人にそれでも簡潔にしか言えていなかった。暗い話題だから。
それでも物理的に何か自分だけないものはなかったので(お小遣いから出していたものも多いが)高校までは同級生とこんなにも差があると思っていなかった。
だが、いざ家から離れて暮らしてみると―私がどうやって暮らしているのかさえも興味がないようだし、帰省してもひたすら働かされる。ひとりだけ。
不満なら帰ってくるなと言われ、出て行くと今度は激怒する。
離れることで自分の世界をそれなりにつくることもできていたし、やはり家はおかしいのだという思いを強めつつあったし、おかしな家族に、どんどんとうんざりしていっていた。
帰省して家族と過ごす時間を楽しんでいる友人たちを見て、ああ自分は違うのだ、と悲しく思っていた。
それでも、そういうめにあわされるとは予想外で、うちのめされた。
そうか、誰も私の成人式なんて気にかけていない。
これが、持てる者と持たざる者の差を大きく痛感した、初めての出来事だった。
その衝撃は大きかった。
自分にはないのだ、愛してくれる存在というものが。気にかけてくれる存在というものが。
これを認めるのはとてもきついことだった。
では、
ないのならば、つくっていくしかない。
人は一人では生きてはいけない。
必要なものを必要と、ほしいものをほしいと、認識する。
最近になってようやくそう思うようになった。
結局は離れていく存在であっても、そういう運命だったのかと、結局はかなわないのかと嘆きながら、失いつつも、そのときは助けられたのだからと感謝の思いで憎むことはできない。
憎んだことももちろんあるけれど―憎むというのはエネルギーがいることだ。
許せない、悲しい、弱い自分を許すことで、楽になれる。
被害に遭うことで、それまで直面しなくて済んだ問題、被害に遭わなければここまでつまびらかにならなかった問題が大きく浮上し、荒波となって、うねりとなって襲いかかる。
私からは話を聞こうとせず、あろうことか勝手な嘘ばかりの情報を信じ、加害者の親族、加害者の弁護士から聞かされることを信じ、私を罵り。
「迷惑」「恥ずかしい」と叫ぶ。
私が少し前にあげたほんのわずかなプレゼント、それを見つけるのに苦労したのに、平気で突き返し送り返されたときには、ただ涙しか出なかった。それもほんの少し。心がとても乾いていて、たくさん泣くこともできなかった。
おそらく被害に遭わなくても、何らかの形で衝突はしただろう。その素地はじゅうぶんにあった。
だが、ここまでひどい形では、弱っている人を、崖のふちをさまよっている状態の人を、
まさか家族がさらに崖から突き落とすような真似をするとは、予想もつかないことだった。
ほんとうに助けてほしかったときに、助けてもらえなかった。絶縁された。
なんどもなんども、失ったものを嘆く作業をした。
さんざんグリーフワークをした。
するたびに回復したという自覚はあった。
それでも。
この時期はつらい。
被害に遭った時期の記念日反応もつらいが、こっちもつらい。
失ったもの、いや、もともと持たなかったもの、それが、家族からの愛情。
それを、持っている人たちとの差を、再度感じる日。
若者たちの幸福そうな笑顔と、それを祝う大人たちの笑顔。
それがあふれる一日。
きっと私には永遠に手に入らない、家族からの愛情。
もう裏切られるのはいやだと思いながら、今日ひとりで過ごしていることの意味を考える。
やはりこの人との生活ももう駄目なのかと。
私はどうやってもひとりなのだと。
人間はしょせんひとり。
それはわかっているつもりであっても、いざつきつけられると。
そしてそれがこの時期だと、とてもつらい。とても示唆的だ。
今日は泣こう。たくさん泣こう。








