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緊急避妊ピル、ノルレボの承認めざしてパブリックコメントを出しましょう!

※※同じ内容の記事を別館にもアップしています→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20101115/1289780712
 こちらは性暴力に理解がある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。※※



海外では、緊急避妊専用のピル、ノルレボ錠がありますが、日本では承認さえされていません。
二種類の中用量、高用量ピルで代用するしかないのです。身体への負担が大きく、副作用もあります。

しかも、性暴力被害にあった場合、レイプクライシスセンターもなく(ようやく数ヶ月前に大阪に民間のSACHIKOが、愛知県に警察の試験的運用としてワンストップセンターがつくられましたが)、必要なケアを受けることができません。


交通事故や犯罪被害などで、怪我をしている場合は、病院で医療を受けることを優先するのに、
警察は、性犯罪となると、告訴するということを決めていない状態では、病院に連れて行くことさえしません。
緊急避妊は当然の医療ケアとして扱われていないのです。
親告罪だとか告訴だとか、ふつうはなじみのない生活を送っていてわからないことだらけですし、被害直後の混乱した状態で威圧的に言われても逃げ出したくなるのが普通だと思います。ひどい話を沢山聞きます。
警察を経由せずに病院に直接行った場合なども、ひどい対応をされたという話もたくさん聞きます。


こうした現状を変えるためには、
緊急避妊がもっと当たり前のこととして、当然のこととして認められる必要があります。
また、性犯罪被害がどれほど多いのかも認知されていないために、すぐに承認にされないのだと思います。
他国のようにいつかドラッグストアなどでも処方箋なしでも入手できるようになるためには、まず今の段階で承認させなくてなりません。

パブリックコメントは数がものを言います。
数で、承認してほしい、承認反対、が決まるようなものです。
簡単な一言でいいですので、ご協力お願いいたします。


パブリックコメントでは、性犯罪被害にあったということは特に言う必要はありません。
自分の大切な人が被害にあったが、ということでもかまいません。パブリックコメントは誰が書いてもいいのです。被害当事者でなくてももちろん大丈夫です。
被害のことを言った上で伝えたいというお気持ちの方もいらっしゃるとも思います。
どういった場合も、どうぞお気持ちを大切にされてください。


ご自分の心身の余裕と、お気持ちに無理のない範囲でご協力をお願いいたします。


パブコメはこちらから出してください。
https://www-secure.mhlw.go.jp/cgi-bin/getmail/publiccomment_input.cgi?mailto=norlevo-drug@mhlw.go.jp
件名に、「ノルレボ錠0.75mgの医薬品製造販売承認に関する意見」と書いてください。



JFPA(日本家族計画協会)の、北村邦夫先生に、下記の文章について、転送転載の許可をいただきました。
ぜひ皆様、広めて、緊急避妊ピル、ノルレボを承認してもらいましょう。


JFPAには以前から、緊急避妊のできる病院が全国どこにあるのか等問い合わせに応じるなど、積極的に取り組んでいらっしゃいます。

緊急避妊Q&A
http://www.jfpa.or.jp/cat5/index06.html で、電話で緊急避妊をしてくれる病院を教えてくれます。




********************************以下、転送・転載歓迎です。************************************


北村邦夫@日本家族計画協会です。
レイプされた、避妊できなかった、避妊に失敗したなどに際して72時間以内に服用することで最後の避妊を可能にする緊急避妊ピル。承認に向けた一歩手前で国はパプリックコメントを求めています。「え?」と首を傾げたのは言うまでもありません。
緊急避妊ピル(ノルレボ錠)も低用量ピルと同じ運命を辿ろうとしているのです。できましたら、このメールを他のメーリングリストなどにもご紹介ください。ご質問などございましたら、北村宛(kitamura@jfpa.or.jp) 遠慮なくお問い合わせ下
さい。


以下、サイトにお入りください。(PDFは添付)
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495100233&Mode=0

低用量ピルの時もそうでしたが、承認反対派などが、このパプリックコメントに驚くほど多数の意見を寄せ、承認審議を先送りせざるを得なくなったという忌まわしい過去があります。僕としては、どうしても、そのような動きを阻止したいのです。
できるだけ簡単な意見(例、「○○です。緊急避妊を早急に承認してください」、「○○です。レイプ被害に遭った女性を苦しめたくない」など)で結構です。下記宛お送りいただけないでしょうか。サイレント・マジョリティの汚名を返上して、今こそ行動をおこしませんか? 

(1)インターネットの場合には「厚生労働省・パプリックコメント」からお入り下さい。
*入力フォームの「※件名」欄に「ノルレボ錠0.75mgの医薬品製造販売承認に関する意見」と入力してください。
(2)郵送する場合
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1-2-2 厚生労働省医薬食品局審査管理課あて
(3)FAXの場合
FAX番号:03-3597-9535

ご意見は、日本語で、個人の場合は氏名、住所、職業、連絡先(電話番号及びFAX番号)を記載して下さい。(連絡先等は、提出意見の内容に不明な点があった場合等の連絡・確認のために利用します)。なお、寄せられた御意見は、個人を特定することのできる情報を除き、公開されることにつき、あらかじめ御了解願います。


なぜ、今、緊急避妊ピル(ノルレボ錠)が必要なのか?
1.日本では、医師が一切の責任を負って、中用量ピル(プラノバールあるいはドオルトン)を処方し続けてきました。

2.現在「犯罪被害者への医療支援」が47都道府県で実施されており、レイプ被害に遭った女性に対して、緊急避妊ピル(中用量ピル)を無料で提供しています。公に承認された緊急避妊ピルがないにもかかわらずです。

3.多発性骨髄腫の治療薬としてサリドマイドが使われていますが、この女性患者に対しては、必要に応じて緊急避妊ピル(中用量ピル)の提供が義務づけられています。公に承認された緊急避妊ピルがないにもかかわらずです。

4.従来、医師の責任で処方している中用量ピルと、今回承認を待望している緊急避妊ピル(ノルレボ錠)の比較研究を北村が実施しておりますが、その出現頻度をみますと、「副作用なし」(41.4%:94.7%)、「悪心」(55.2%:2.8%)、「嘔吐」(13.3%:0%)などとなっており、ノルレボ錠の安全性は明らかです。レイプ被害に遭った女性に対して、それでも中用量ピルを処方し続けますか?

5.層化二段無作為抽出法によって15歳から49歳の国民男女3000人に対して行った「男女の生活と意識に関する調査」(北村)によれば、直近の調査(2010年10月)でも、既に緊急避妊ピルを使用したことのある女性は46万人を数えています。副作用の強い中用量ピルを服用させていることを残念に思います。

6.そして何よりも、ノルレボ錠を含むレボノルゲストレル(黄体ホルモン製剤)単剤の未承認国は、チリ、ペルー、イラン、アルジェリア、アフガニスタン、北朝鮮、日本の7カ国が残されているだけです。日本は最後の承認国になるのですか?

7.薬剤でのパプリックコメントが求められたのは最近では多発骨髄腫治療剤「サリドマイド」以来です。同じ扱いですか?

本件については、以下のサイトも役立ちます。
http://www.watarase.ne.jp/aponet/blog/101111.html




***********************************
北村邦夫 (Kunio Kitamura)
社団法人日本家族計画協会 家族計画研究センター・クリニック
Research Center/Clinic of Japan Family Planning Association,Inc.
tel 81-3-3235-2694 fax 81-3-3269-6294
中央公論新社(婦人公論編集)から新刊発売
『40代からの幸せセックス あなたの「本当の快感」を探す旅へ』ー知らずに女は終われない
『Dr北村のJFPAクリニック』http://www.jfpa-clinic.org/ ブログ更新中
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<追記>

別館のコメント欄にて、ご摘のあった点等について、北村先生からご教授いただきました。
重要な点について喚起いただき、ありがとうございました。


ご親切にお教えいただいた北村先生にも深く感謝いたします。

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緊急避妊ピルについてですが、実は、日本では既に使われているものです。僕自身も緊急避妊ネットワークを組織しており、北海道から沖縄まで実に1500余の産婦人科医が加入しています。緊急避妊が必要になった場合には、03-3235-2638(月から金、10時から16時、祝祭日はお休み)にお電話をいただければ、処方施設の紹介を無料で行っており、昨年度だけでも2千件を超える紹介がなされています。

 このように、緊急避妊ピルが承認されていないわが国で、既に緊急避妊ピルが処方されている不思議さ。既存の承認薬を医師の判断と責任で転用することは法に触れないことになっているからです。そのために、ご指摘のように、トリキュラー、アンジュ、トライディオール、マーベロンのような低用量ピルでも、プラノバール、トライディオールなど中用量ピルでも転用してきたのです。でも医師の好意に甘え続けるには限界があります。しかも、通常1錠で済むはずのピルを、2錠(中用量)、6錠(マーベロン)、8錠(トリキュラーなど)も飲まなければならないのですから、吐く、気持ち悪くなるなどの副作用が強く現れてしまいます。ノルレボ錠に比べて、避妊効果も低い。そのために、堂々と、公に使用できる、安全性、有効性が証明されているノルレボ錠を早期に承認してもらう必要があるのです。

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性暴力被害者の行動及び心理状態について

「性暴力被害者の行動及び心理状態について」

こちらも資料として置いておきます。
同じものを別館にもあげておきます。別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20101031/1288505451

※管理人と友好関係にない人、性暴力に理解のない人は、別館へどうぞ。




秋田セクシュアルハラスメント 二審にて提出され、裁判所の判決に採用された、
フェミニストカウンセラー河野貴代美氏の鑑定意見書

「セクハラ神話はもういらない 秋田セクシュアルハラスメント裁判 」p189~192より引用

3 性暴力被害者の行動及び心理状態について

(1) 日本では、性暴力被害者の行動及び心理状態に関して、これまで全く知られておらず、関心も払われてきませんでした。最近になってようやく被害者が自らを開示し、現実に何が行われたか、またどのような心理状態にいたかを少しずつ話し始めました。このような実態は、ほとんど当事者にしかわからず、体験そのものの特殊性を考えた時、これは当然のことと思えます。前記1で、被害者の回復にフェミニズムの視点が必要だと述べたのは、自分を責める傾向を持つ被害者に、フェミニズムの視点に立つことによって「あなたが悪いのではない」というメッセージを送ることができるからです。それゆえ、彼女等もフェミニストカウンセラーに対して自らを語り始めたのでした。通底する共通性(後述)はあるものの、行動や心理状態は、事件の内容、その時の状況、個人性によってかなりの違いを見せます。にもかかわらず、被害者の反応(たとえば本判決にいうところの「大声を上げて逃げる」)等については、きわめて通俗的なワンパターンの考え方が形成され、それらがあたかも普遍的な真実のように流通しております。これはまさしく非当事者が作り上げた「神話」です。

(2) まず、被害にあった時の反応は、一言で言えば「何が起きているかわからない」という言葉に集約されます。カウンセラーとして私が聞いてきた被害者の多くもこのように述べています。本件の控訴人Aは「もし、『これからセクハラしますよ。』と前もって言われたなら、NOと言ったでしょう。でも、」いきなり全く予期しない事をしかけられるわけだから、どう反応していいかわからない」と述べています。この非常に単純な言説に、あまりにも単純であるがゆえの見落とされがちな真実が含まれています。その他被害者は、「びっくりする」「オロオロドキドキする」「血が逆流する」「金縛りにあったような」「頭が真っ白になり何がなんだかわからない」などと述べております。このような心理は予期せぬ事態にあった時の一般的な反応として十分に説得力を持っています。
 「何が起きているかわからない」時、人はすぐに次の行動には移れないのです。パッと反応する(例えば「ノー」といったり、相手を押し戻したりする)ことができるという予測は、人が驚愕した時の反応としてまことに不適切だと言わざるをえません。もちろんなかには、反抗や反発ないしは何とか止めさせるためのあらゆる行為をする女性もいるでしょう。しかし、このような反抗や反発をする女性がいるという現実をすべての女性の現実に普遍化するのは誤りで、ましてやこれをもって性暴力(セクシュアル・ハラスメント)の存在そのものを否定するのは、女性の現実を全く無視するものです。


(3) 性暴力の被害にあった女性がどのように行動するか、アメリカの研究を紹介しましょう。

 以下では、強姦の被害者の対処行動について述べることとします。
 アメリカの研究者(A.W.Bugess, L.L.Holmstrom, Coping Behavior of the Rape Victim, Am J Psychiatry 133:4)は、強姦被害者の対処行動を、Ⅰ強姦の脅迫期、Ⅱ強姦期、Ⅲ強姦直後期、の三期に分け、92人の強姦の被害者の対処行動を分析しています。
 Ⅰ期に関する被害者の対処行動は、何の戦略も用いなかった被害者34人、何らかの戦略を用いた被害者58人でした。
 戦略を用いなかった被害者のうち二人は身体的麻痺状態、12人は心理的麻痺状態でした。
 戦略を用いた被害者の戦略を分析すると(複数回答)、認識的戦略にとどまった人18人、言語的戦略を用いた人57人、身体的抵抗をした人21人でした。
 認識的戦略とは、その状況に対してとることの可能な選択肢について頭の中で考えをめぐらせ、決定することです。例えば、どうやって攻撃者の手中から、あるいは車や部屋の中から、安全に逃れることができるかについて、考えをめぐらせたり、パニック状態になった男がさらに加害を加えてくることを恐れて、どうやって落ち着かせようかと考えることです。
 言語的戦略とは、その状況から逃れるために、加害者と「どこの学校に行っているの?」等、会話を続けようとしたり、加害者の気持ちを変えるための説得として、「私は結婚しているのよ」と言ってみたり、「主人がじき戻って来るわ」と、加害者を脅そうとしたり、お世辞を使って「あなたは素敵な男だわ、あなたならセックスのためにこんなことをする必要なんてないと思う」と言ったり、言語上攻撃的に「触らないで」と言ったりする等です。
 身体的抵抗とは、その状況から逃れると、あるいは攻撃者を脅かすことによって、強姦を防ごうと直接的な行動をすること(たとえば、ガラスの破片で男を刺そうとする、アパートの外かへ男を押し出そうとする等)です。
 Ⅱ期には認識的戦略28人、感情的反応25人(泣く17人、怒り8人)、言語的戦略23人(金切り声を上げる14人、話をする9人)、身体的行動23人、心理的防衛17人、生理的反応(失神、嘔吐など)10人、戦略なし1人、不明8人(総数90人)でした。
 認識的戦略では被害者はしばしば現実の出来事から精神を切り離し、事態に関係のない別な考えに精神的注意を集中させることによって対処し、生き延びることだけに焦点をあてます。加害者の暴力をエスカレートさせないために、被害者が特に精神的に自制して平静さを保つことは一つの戦略であった、とこの研究者は解説しています。
 言語的戦略には、金切り声を上げるというものと、加害者と話をするというものがあります。
 身体的防衛は、格闘する等ですが、被害者が抗い抵抗することがまさに加害者の望むところであり、それによって加害者がいっそう、興奮する場合のあることを知る必要があります。心理的防衛とは、耐え難い感情を遮断するために、認知領野を閉ざすことです。たとえば、ある女性は「こんなことが私に起こっているはずがない」と強姦されていることを否認し、ある女性は「私は本物の自分ではない」と分裂感情を経験しています。
 以上は、強姦の場合についての分析ですが、強制猥褻等、同じ性的侵害行為を受けた被害者の対処行動も、程度の差こそあれ、同様に考えることができます。

(4) ところで、なぜ、被害の実態に反するにもかかわらず、前述のようなワンパターンの「神話的」反応が流通してしまっているのでしょうか。それは、女性の存在が男性によって規定されてきたという事実に尽きると思います。ボーボワールは、『第二の性』(決定版『第二の性』新潮社)で、「女とは何か」という根源的な問いをたてそれに明確に「女とは他者にされたもの」と答えています。つまり、男たちから、社会から女は「こうだ」と言われ、女性もそれを受け入れてきた長い歴史があります。しかし、これが、本来の自己=女性の現実や実感から遠いイデオロギーになってしまっていることに女性たちが気づき「自分とは誰?何者?」と問い始めたのが1960年代後半のフェミニズムの運動です。女性たちは、他者に規定されない、異なった欲求、感情、行動パターンを持つ種々の女性の存在を主張しております。
 女性を規定するなかでも精神分析の創始者フロイトの影響は大きいと言わざるをえません。彼はギリシャ語の子宮を意味する「ヒステリー」という症状概念を作り、困難な事態に直面すると突然失神する女性を研究対象にしてきました。フロイトは(と共に社会も)「ヒステリー発作」に関して二重のメッセージを送っています。一つは、状態像は「病気である」というもの。もう一つは、にもかかわらず、ヒステリーや心気症(ヒコポンデリー)は「女らしさ」というパーソナリティに十分に組み込まれていて、場合や事情によって、突然倒れるのは、より「女らしい」とされるという事実です。まことに女性イメージは勝手な憶測や定義のなかで浮遊し、たくさんの「神話」がまかり通ってきました。







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<2011.7.18追記>
平成9年10月~10年1月末までに全国の警察署で取り扱った強姦及び強制わいせつ事件について、科学警察研究所の防犯少年部付主任研究員の内山絢子が行った調査

被害者の被害時の対処行動では、「大声で助けを求めた」41.7%、「付近の民家や店に駆け込む」6.4%「やめてくれと加害者に頼む」51.5%、「何もできなかった」25.5%

(「性犯罪の被害者の被害実態と加害者の社会的背景」内山絢子 『警察時報』No.11、2000 年)

プロパガンダの変遷 2

前のエントリ「プロパガンダの変遷 1」
で取り上げた、連載記事の続きです。



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100729-OYT8T00311.htm
(7)市川房枝 職場婚の勧め

 戦後の高度成長期、同じ職場の男女が結婚する「職場結婚」はきわめて多かった。職場結婚をいち早く提唱したのは、婦人参政権運動で活躍した市川房枝だ。

 証拠は1939年(昭和14年)11月20日の読売新聞家庭面に掲載された「ご法度恋愛回れ右 職場結婚を認めよ」という市川の談話。

 市川はいう。政府は人口を増やすために結婚を奨励しているが、日中戦争が続き「若い男は多く出征」しており、結婚は難しくなっている。そこで、どこの会社でも禁止されている「職場内の男女の恋愛や結婚」を「進んで認め斡旋(あっせん)の労をとる位にしてほしいものです」。

 そのうえで市川は、結婚して子どもを産んでも働き続けることができる環境を求めた。「勤務時間の制限とか、より完全な託児場の設置」が必要だとしている。

 市川の職場結婚論は現在の仕事と子育ての両立支援策に近い。この構想は市川だけの空想ではなかった。

 42年9月4日に、「同一職場の結婚 風紀は逆によくなる 第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で試験ずみ」という記事が掲載される。造兵廠とは武器の製造工場のこと。記事には、人事相談所主任の談話を掲載している。「職場結婚は、よく知っている者同士の結びつきなので相互の理解も深く理想的な結婚。熟練した女子を退職させないためにも職場内の結婚が望ましい」という。

 43年1月には「職場の結婚相談」という4回の連載を掲載。第一陸軍造兵廠も取り上げられている。託児所が2か所あり「母たちは休憩や食事の時間に授乳にやってきて、再び職場に帰り、心おきなく共稼ぎ」しているという。

 立川飛行機も、子どもができても働けるよう産婦人科と託児所を設置していると記事にある。

 戦時の女性に求められた出産と労働。その両方を実現するため、こうした施策が行われた。(敬称略)

(2010年7月29日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100730-OYT8T00290.htm
(8)「日本の母」わが子ささげた

「君のためにはわが子をも喜んでささげるのが日本の母です」という文章が、1942年(昭和17年)3月11日の読売新聞の家庭面に掲載される。筆者は、女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)。

 子を産み愛することと、子を戦場に送ることは両立しない。その矛盾を解消するのが、この「日本の母」論だった。

 同年9月9日、社会面で「日本の母」という全49回の大連載がはじまる。

 読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画。軍人援護会の府県支部から「日本の母」が推薦され、作家による訪問記の連載となった。執筆者には、川端康成、菊池寛、佐藤春夫などそうそうたる名前がならぶ。

 8月25日の家庭面で連載の意義が説明されている。「立派な母を模範としてすべての女性が子供を育てなければならぬという自覚を促す」と述べているのは、言論統制機関である内閣情報局の次長。日本放送協会なども後援しており、国ぐるみの事業だった。

 詩人の高村光太郎が訪ねたのは、山梨県の女性。2人の子どもが召集され、1人が戦病死した。

 「(我が子が)ご奉公できたことを最上の名誉と肝に銘じて立ち上がった。以来おばさんの国家に対する奉公の熱意、上御一人(かみごいちにん)に対し奉る尽忠の誠意は前にも増して燃え上がった」。上御一人とは天皇のこと。

 劇作家の久保田万太郎が訪ねたのは東京の平間りつという女性。5人の子が召集され、3人が戦死、戦病死した。

 「わたくしの訪問は三十分で終わりました。わたくしのような訪問者としばしば折衝した経験を持つりつさんをわたくしが発見したからであります。どんなキイを叩(たた)いても規則正しい音しかでないことがわたくしにわかったからであります」

 遺族のもとに取材が集中していたこと、遺族が気持ちを自由に話せなかったことが、久保田の文章からうかがえる。子の死を悲しむことが許されなかったのである。

 (敬称略、引用文は仮名遣いなどを改め一部省略)

(2010年7月30日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100731-OYT8T00173.htm
(9)「軍神の母」求める声高く

 1942年(昭和17年)8月から9月、読売新聞家庭面で「軍神に学ぶ」という15回の連載が掲載された。

 国民学校(小学校)などの校長と少年で「軍神敬頌(けいしょう)派遣団」をつくり、全国の軍神の生家を訪ねた。そこで学んだことを、校長たちが座談会形式で語っている。

 軍神とは、輝かしい武功をたてた戦死者の尊称。真珠湾攻撃で戦死した「九軍神」や、「空の軍神」加藤少将を当時だれもが知っていた。連載では、ある大尉のこんな話が紹介された。

 「(大尉が)『お母さんもし私が死んでもお母さん泣きはしないでしょうね』と尋ねたところ、『泣くものですか。手柄を立てて死んだのだったら涙ひとつ出しません』といわれ、大尉は涙を流して喜ばれたということであります」

 この時期、新聞には母を礼賛する記事が、1面から社会面まで掲載された。

 同年4月の2面には「良き母あれば戦争は勝つ」の大見出し。「日本の兵士が大君の御盾(みたて)となって散ってゆけるのも、心の網膜にやさしい母のまなざしが生き生きと輝き、慈母観音のように自分を見守っていてくれるからだ」と海軍大佐が語っている。

 絶対的な存在である母が、国のために死になさいというのだから、子は安心して死んでいく。そういう理屈が展開される。「母こそ長期戦を完遂する根幹である」と同年10月の社説は書いた。総力戦は母の愛も動員したのである。

 43年5月、家庭面に「武家の女子教育」が連載された。筆者は、国民精神を明らかにするために設置された「国民精神文化研究所」の所員。「(軍神の母たちは)自分の子どもは陛下からお預かり申しあげているのであるという信念に徹した母達であったのである。われわれはこの点改めて日本の女子教育の伝統を回復する必要があろう」として、女性に対する高等教育と婦人参政権論者を批判する。

 このころ、女性の論者は家庭面から姿を消し、男性の筆者が女性に対し、「軍神の母」であることを求める論調を展開するようになる。(次回は3日に掲載します)

(2010年7月31日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100803-OYT8T00240.htm
(10)「標準服」洋装の契機に

「これが婦人国民服 和服も再生出来て仕立ては簡単」。対米開戦直後の1941年12月20日の読売新聞朝刊に、写真入りで女性服が紹介された。厚生省が、一般から公募していた「婦人標準服」がほぼ決定したという記事。

 甲型は、「洋服を日本化し、日本襟が特長」、乙型は「和服の欠点を改良し袖丈を短く帯も半幅、すそも輪式(スカート風)に」と記事は説明する。さらにそれぞれワンピース型とツーピース型があるという。今見ると不思議な服だ。標準服は翌年正式決定され、家庭面でも、作り方を紹介した。

 なぜこんな服が作られたのか。

 見出しにある国民服とは、40年1月に発表された男性用の服。最小限度の手直しで軍服として使え、布の節約も目的とした。終戦前には多くの男性が着用したので、よく知られる。

 国民服に続き、公募されたのが「婦人標準服」だ。当時、多くの女性は和服を着ていたが、たもとや幅広の帯などで動きにくい。洋服は活動的だが、戦時下、日本的なものを完全に否定もできない。そこで、「日本襟にスカート」という和洋折衷の標準服ができた。

 42年2月の家庭面では厚生省の担当者が「和服の非活動、洋服の単なる欧米模倣を排して、生活向上に進むことです」と説明している。

 しかし、42年11月の家庭面に、「婦人標準服はなぜ普及せぬ」という記事が掲載される。「活動性、日本女性美の発揚を謳(うた)って厚生省が発表してからもう十か月にもなる今日、街にも家庭にもほとんどその姿を見受けません――」

 標準服は、タンスに退蔵している服を仕立て直して作るのが建前で、既製服が出回らないのが普及しない要因。また、手縫いも難しいと思われている、と記事は指摘する。

 標準服はまったく普及しなかった。しかし、日本的美を主張しながらも、洋服型が示されたことで、洋装家が勢いを得た面もある。武庫川女子大の井上雅人講師は「和服ではない衣服を女性の服として政府が認めたことで、洋装についての議論が活発になった。戦後の洋裁ブームを準備したといえる」と話す。

(2010年8月3日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100804-OYT8T00187.htm
(11)モンペ「科学的」に推奨

戦時中の女性の服として印象が強いのがモンペだ。国が公募した標準服は普及しなかったが、モンペは多くの女性が着用した。

 「活動的なばかりでなく、薪炭の不足がちな戦争下の保温服装として、モンペの使用はもっと普及徹底化されねばならぬ(中略)モンペは働く婦人の戦闘衣なのである」。1942年(昭和17年)12月の読売新聞家庭面で、早稲田大教授の今和次郎(こんわじろう)がこう訴えている。

 モンペは、東北地方などの農村の仕事着。和服と違い両足が分かれ、動きやすい点などが、古くから着目されていた。読売新聞でも1925年(大正14年)2月にすでにモンペを評価する記事がある。

 一方でモンペは、「格好のよくない服」と見なされていた。また、両足がはっきりわかる衣類は、女性にとってはしたないとも考えられていた。こうしたことから、当初は政府の中にもモンペの普及に反対する声があった。

 「科学的に被服を見よ」(42年11月婦人特集)。記事は、戦時下、装飾的な要素より科学性に重きを置いて衣服を検討していくべきだとし、保温性などでモンペが優れていることを強調している。生活を「科学的」に見直すべきだと、この時期盛んに言われていた。43年3月の家庭面も「モンペで歩くのは恥ずかしいといった気持ちを捨てきれないのは大きな間違いです」。

 国は、節約のため、タンスに退蔵されている衣料を、活動性の高い衣類に女性が自分で仕立て直すことを求めた。モンペは縫うのが簡単で、これに適していた。

 42年から43年にかけ、家庭面は、モンペの改良についての実用記事を度々掲載した。「ズボン型のモンペ 洋装なさる方に格好よく」「今までまた下が短すぎた」――。

 行政、婦人団体なども推奨を続け、防空訓練などで女性たちはモンペに慣れていった。隣組などによる相互監視で、仕方なくはいていた例もあっただろう。

 武庫川女子大の井上雅人講師は「総力戦下、機械の部品のように国民を均質化しようとする論理が、モンペに反対する声に勝った」と話す。(敬称略)

(2010年8月4日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100805-OYT8T00182.htm
(12)「国民食」の栄養基準 むなしく

「今度は国民食の制定へ」。1940年(昭和15年)10月22日の読売新聞朝刊の記事だ。「衣」の国民服に続き、「食」にも統制が必要と、「食糧報国連盟」が、栄養学に基づく国民食を制定することを伝えている。

 記事はこう説明する。「一部上層者には食品は豊富だが、多数は不足している。『おごらず欠けるところのない食べ物』を全国に配置し――」

 当時は米不足が問題化していた。明治以降の人口増加に伴う消費量増に加え、農村部の労働力が兵役のため減る。主要産地だった朝鮮半島の凶作も響いた。

 また、都市と農村の格差も大きく、農村の食事は栄養が偏りがちだった。

 国民食は、年齢別性別の栄養基準に基づく食。メンやパンを取り入れ、カロリーやたんぱく質量などを示した。同年11月に基礎案が決まった。

 「国民食の標準はどんな食品か」。40年11月の家庭面は、軽い立ち作業をする成年男子に必要な2400キロ・カロリーを取るための1日の食事例を紹介している。カロリーは現在の基準とほぼ同じだ。小麦混入米が約3合、イワシや牛細切れなど肉類120グラム、ニンジン、ジャガイモなど芋や野菜類、豆腐、油脂類、食パン――。

 41年2月の婦人特集では、食糧報国連盟の献立例を示した。寄せ鍋、五目ご飯、ハヤシライス、イワシのフリッターなどが登場し、味も工夫したと強調している。

 ただ、国民食が、国民にすぐに受け入れられたわけではないようだ。「恐ろしく画一的な食事形式を国民に強いる」「栄養学者が試験管で研究したものを押しつける」という誤解があると食糧報国連盟の担当者は述べている(41年1月17日朝刊)。

 さらに、この後、戦況の悪化で食糧事情は切迫してくる。国民食で示された基準を満たすことは、現実には出来なくなっていく。42年ころからは、国民食についての記事も少なくなった。

 静岡大学の矢野敬一教授は「国民食は、絵に描いた餅となった。しかし、階層差のない食のあり方が示され、国民が栄養についての知識を共有するきっかけとなった」と指摘する。

(2010年8月5日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100806-OYT8T00184.htm
(13)食糧事情が悪化郷土食に脚光

食を統制する「国民食」の議論の中で、注目されるようになったのが「郷土食」だ。

 1941年(昭和16年)1月8日の読売新聞家庭面は、国民食について「要点を決めて各郷土で応用して行く」という大政翼賛会の見解を紹介した。3月の家庭面も、「郷土食のいいものは広く取り入れる」ことを主張している。

 「国民食」は、必要なカロリーなど栄養基準を示したものの食糧事情の悪化で現実的ではなくなっていく。入れ替わるように43年ごろから、「郷土食」が、紙面に度々登場するようになる。雑穀や芋、山菜などを使った各地に伝わる料理を見直すことで、米不足を補おうというのだ。

 政府は43年6月に「食糧増産応急対策要綱」を決定、郷土食を見直す運動も盛り込んだ。これを受け、社説はこう書いた。「食糧需給対策として最も適切な方法(中略)農村が出来るだけ米食から郷土食に移ってもらえば、食糧計画遂行が楽になる」

 雑穀などが中心の食事だった農村も、米の配給制で米の消費が増えていた。それを元に戻そうというのである。

 家庭面では、郷土食の作り方を紹介した。「材料をちょっと加えればどの地方にもできて、戦争下にふさわしい」(43年7月)。10月にも、山梨の「ほうとう」、岐阜の「いもぼたもち」、京都の「豆茶がゆ」など、米が少なくて済む料理の記事を載せた。

 「草深い山村に埋もれた郷土食がいまや決戦食として再検討されている――」。連載「郷土食を探る」が2面に掲載されたのが44年4月。全国の帝国大学が行った大規模な郷土食調査を伝えた。トウモロコシやカボチャ、サツマイモなどを使った各地の郷土食を紹介し、「何でも食べることが都会の郷土食的決戦食であろう」と記事は結んだ。

 実際、食糧事情の悪化とともに、都市部のいたるところで、カボチャやサツマイモが植えられ、野草も勧められることになる。

 家庭生活も成り立たなくなり、読売新聞の家庭面は44年9月に休止となる。

 静岡大の矢野敬一教授は「郷土食への注目は、ある種の地域文化の見直しにつながった。ただ戦後は、郷土食は貧しく脱却すべきものとみなされ、米の収量増が図られた」と話す。

(2010年8月6日 読売新聞)





http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100807-OYT8T00178.htm
(14)「婦人参政権」獲得へ 国策に協力

1942年(昭和17年)6月30日の読売新聞家庭面に、女性たちの似顔絵が紹介されている。

 下段右端は、婦人参政権運動を指導してきた市川房枝。ほかに東京女子医大創立者の吉岡弥生など、当時の有力な女性たちが並ぶ。

 この時期、こうした女性たちは、政府の各種委員などに就き、「婦人国策委員」などと呼ばれた。女性に参政権のない時代、女性が政治にものを言う新局面が到来したことを意味した。

 婦人国策委員たちは家庭面に盛んに登場している。

 「女子の徴用を行え」という記事が、43年6月の家庭面に掲載されている。市川らのグループが「女子動員は徴用の形をはっきり採用」することを求める意見をまとめたという内容。徴用とは、令状によって、軍需工場などで働かせること。当時の女子挺身(ていしん)隊などは勤労奉仕で、徴用に比べれば強制性は薄かった。働かない女性が多いから「徴用を行え」というのである。

 こうした言動には、当時から批判があった。39年6月の家庭面に「市川房枝女史 役人の片棒かつぎ」という痛烈な見出しの記事が載っている。「(市川は)役人の片棒かついで利口に立ち回りすぎるとかこつ女性ファンもある。女史ともあろうものが、御用がすんだら『家庭に帰れ』で手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」と結ぶ。

 市川は、なぜ、戦争体制に協力したのだろうか。

 国際基督教大の武田清子名誉教授(93)は「この時代の女性指導者の多くは、女性が国民としての義務を果たすことが、婦人参政権につながると考えていた。しかし女性の地位向上への思いが強いあまり軍国主義への警戒が足りず、全体の動きを見る目が甘くなったのではないか」と話す。

 欧米の女性が第1次世界大戦で戦争に協力した結果、参政権を得たということは当時、常識だった。前述の「手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」とは「戦争が終わったら婦人参政権は獲得するんでしょうね」という意味である。

 (敬称略、次回は10日に掲載します)

(2010年8月7日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100810-OYT8T00173.htm

(15)参政権獲得と不戦の決意

敗戦から10日後の1945年(昭和20年)8月25日、市川房枝は仲間とともに戦後対策婦人委員会を発足させ、東久邇(ひがしくに)首相や政治家の鳩山一郎に婦人参政権の実現を働きかけた。

 同年10月7日、幣原(しではら)内閣組閣に際して市川は読売新聞に談話を寄せた。「戦争に負けたことについては婦人が十分に働かされていなかったからだということを自覚していますから、国の立て直しには力いっぱい働きたいと考えているのです」

 こうした動きを受け、幣原内閣は、婦人参政権を閣議決定する。

 一般には、10月11日、「婦人の解放」を掲げた5大改革を、マッカーサーが幣原に指令したことによって婦人参政権は実現したとされている。

 しかし、実際には、その前に日本側で決定していた。10月13日の読売新聞の記事によると、婦人参政権については臨時閣議ですでに決定したと幣原がマッカーサーに回答したところ、「早手回しそれで結構だ、今後ともその調子でやってほしい」と言われたという。

 同じ紙面で、堀切善次郎内務大臣は、「戦時中における婦人の敢闘(かんとう)ぶりを見、かつ女性の職場進出と相まっての社会的地位の向上から考えて現在すでに日本女性が参政権を得てもきわめて妥当と考える」と話している。

 堀切は後年、市川が編集した『日本婦人問題資料集成 政治』の中に「婦人参政権はマッカーサーの贈物ではない」という談話を残している。それによると、堀切は戦時中、女性指導者と仕事を共にし、敬意を抱いていた。そこで、10月10日の閣議で婦人参政権を提案し、賛同を得たという。

 婦人参政権が、戦争協力の結果として実現したというのは、現在の我々には認めがたい。しかし、堀切はそう考えていた。

 新聞記者が市川を訪ね「うれしいでしょう」と聞いた。市川はしばらく黙ってから「うれしいです」と答えた。「与えられた参政権を使って、二度と再びこういう戦争を起こさないように(中略)覚悟をきめて、そのうえでうれしいですといったんです」(『人間の記録 市川房枝』)(敬称略)

(2010年8月10日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100811-OYT8T00233.htm

(16)平和が戻り紙面再開

読売新聞婦人部の元記者、井上敏子(86)は、東京大空襲で母イネ(当時45歳)と姉喜美(同23歳)を亡くした。

 1945年(昭和20年)3月10日未明、空襲が始まると浅草の自宅はすぐに火に包まれ、妹と2人で隅田川に飛び込み、船にしがみついて夜を明かした。翌日、行方不明になった2人を捜して、黒こげの遺体を一つ一つ見て歩いたが、見つからなかった。東京都の慰霊堂に姉の遺骨が保管されているのがわかったのは、39年後の84年3月のことだ。

 井上は38年に読売新聞の総務局に採用され、和文タイピストや庶務係などとして働いていた。当時女性社員は少なく、記事の写真モデルにも駆り出された。

 43年9月の家庭面「空襲に備えて 非常袋を備えよ」の記事では、モンペ・防空ずきん姿で非常袋(印鑑や財布、貯金通帳などを入れる貴重品袋)を、肩から下げた井上の写真が掲載されている。

 終戦から5年後の50年、職場で花を生けていた井上は、編集主幹の安田庄司に記者になるよう勧誘された。「婦人部を作るから来ないか」。井上が「私は浅学非才で、つづり方は丙だった」と断ると、安田は「これからは女性の時代だ」と熱心に説いたという。「今までのように男を主に考えた紙面ではだめだ」「女性の目を開く紙面にする」「戦争で壊れた家庭を再生したい」「お母さん教育のために生活記事を主にした紙面を作りたい」――。

 戦争末期に休止した家庭面は48年に再スタートしたものの不定期掲載だった。文化部に吸収されていた婦人部が50年に復活し、51年9月1日から家庭面は連日掲載になる。この日のトップ記事では、婦人運動家の山川菊栄が「戦争防止へ参政権を活用しよう」と呼びかけた。

 こうして、家庭面の戦争は終わった。(敬称略)

 (この連載は斎藤雄介、伊藤剛寛、月野美帆子が担当しました)(おわり)

(2010年8月11日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100825-OYT8T00193.htm
[反響]子が戦死 記憶封印の母


家族のつらさ知り、胸痛む


 先月から今月にかけ掲載した企画「家庭面の一世紀 女性と戦争」で、太平洋戦争中の読売新聞連載「日本の母」を取り上げたところ、関係者や読者から手紙が寄せられた。翻弄(ほんろう)される母の姿に、改めて戦争について考えさせられる。

 「日本の母」は、読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画で、1942年(昭和17年)に掲載され、翌年本として出版された。当時の著名作家が、戦死者の母を訪れ、我が子を国にささげた母をたたえるという内容だった。

 「家庭面の一世紀」では、劇作家の久保田万太郎が東京の平間りつさんという女性を訪ねて書いた記事を取り上げた。りつさんは5人の子が日中戦争に召集され、3人が戦死、戦病死した。

 これに、りつさんの孫で、東京都台東区の平間美枝子さん(64)が手紙を寄せた。

 67年に84歳で亡くなったりつさんや、りつさんの四男で美枝子さんの父である四郎さんから、戦争のことについてほとんど聞くことはなかったという。

 「戦争で3人の子どもが犠牲になるということは、思い出したくないほどつらい記憶なので、話せなかったのでは」と推測する。

 現在、戦争の記憶を思い起こす遺品などは残っていない。「3人が戦死したということしか知らなかったので、当時の読売新聞の記事で家族の具体的な様子を初めて知り、胸を痛めた」と美枝子さん。

 埼玉県在住の友石知恵子さん(77)の母、橋本すずさんも「日本の母」の連載に登場している。見出しには「尊く宿る犠牲奉公 馬鈴薯を売り歩き子供に教育」とある。

 すずさんの長男は陸軍中尉で、40年に中国で戦死した。

 友石さんは「今回の記事を見て、教育熱心で厳しかった母を思い出した」と話す。

 すずさんは58年に63歳で亡くなった。「つらくても弱音を吐かない気丈な母だったので、戦争の話はほとんどしなかった。陸軍士官学校を出た自慢の長男が戦死して本当はさびしかったと思う」と話す。

 「日本の母」の本を実家の仏壇に供えていたが、その後紛失したため、今回の記事をきっかけに古本屋で探し求めて改めて読んだという。

 札幌市の主婦花田綾子さん(53)は、中学3年生の娘を持つ母として連載記事に感想を寄せた。「子どもを亡くすことほど母にとってつらい悲しみはない。戦争や国のために子どもを産んだわけではなく、犠牲を強いる戦争なんて、あってはいけないこと」

 また、当時の新聞の姿勢にも疑問を投げかける。「新聞などのマスコミや有名な作家があおって、『日本の母』を賛美したのは恐ろしいこと。国民も大きな影響を受けたのではないだろうか。二度と悲劇が起こらないようにすることが大切だと思う」と話した。

(2010年8月25日 読売新聞)








※10/28追記

別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20101028/1288258802

性暴力に理解のある方、かつ管理人と友好関係にある方にのみ、こちらの本館は限定させていただいています。
該当しない方、該当するかどうか自信のない方はさっさと出て行かれてくださいませ。

プロパガンダの変遷 1

この間から興味深く読んでいた、読売新聞の連載。
そのうちプロパガンダについてのエントリを書こうと思っている(いつになるかわからないけれど)のでここにメモ。
とりあえず7/28の第六回までここに載せさせていただいたのだけれど、まだ連載は続いています。
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/


写真等も載っているので原文を読んでもらった方がいいと思います。
各記事の最初にもURLをつけました。



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100723-OYT8T00333.htm
(1)「頑健な骨格」戦中の美人
「総力戦の戦士」国が期待


「新しき美」の紙面に登場した会田昌江(原節子)



岩田和子(共に1940年2月) 読売新聞の「くらし家庭面」が、1914年(大正3年)に日本で初めての本格的な家庭面(婦人面)として始まってからまもなく100年になります。この連載では毎年、家庭面の歴史を紹介します。戦後65年となる今年は、戦争が女性の暮らしや労働にどのような影響を与えたのかを家庭面を通じて見ていきます。

 1940年(昭和15年)から41年にかけて、読売新聞の家庭面で、女性の美についての記事がさかんに掲載された。

 「まだいくらでも伸びる余裕を示している肢体は、日本美人としての規約を超えた不敵な美しさです」

 40年2月24日の記事で賛辞を浴びているのは21歳の会田昌江。のちの大女優、原節子である。

 原が登場する「新しき美」という記事は、2月21日から11回、連載されている。「新しい美の要素を精神的に肉体的に具現した女性」を各方面の推薦で紹介するというのが連載の趣旨だ。

 女優やピアニスト、弁護士にまじって異彩を放っているのは、海軍大佐の次女で岩田和子という若い女性だ。

 「現代の美人とは、その骨格にある」と推薦者はいう。「この人(岩田)の身長は5尺4寸(約163センチ)強あり、体重は15貫(約56キロ)ある。健康であり、あらゆる労働に耐え得る。この人の交通機関は自転車ときまっている」

 日米開戦の前年、様々な物資が統制の対象になっていた。

 「ガソリンが統制され、電気が統制された今日、おめおめ自動車や電車に乗っていられるかというのである」

 41年1月には、詩人の高村光太郎、作家の宮本百合子ら一流の文化人を集めて座談会が開催され、その模様が「新女性美の創造」のタイトルで15回にわたって連載になる。

 この中で、竹内茂代(医師、戦後に代議士)が称賛したのが、36年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した前畑秀子だった。水泳で鍛え抜かれたその体を、竹内は測定したのだという。

 「寸法でいいますと身長が160センチ、胸の回りが90・2センチ、目方が58キロ。骨盤も豊かです」

 戦前、美人といえば、竹久夢二の絵に代表されるように、やせて、はかなげな女性だった。それに対し、これらの記事は、身長、体重まで明示して美人を定義し直している。前述の岩田と前畑の身長、体重はほぼ同じ。原も当時の女性としては背が高く、160センチあったといわれている。

 なぜ、この時期にこうした記事が書かれたのだろうか。

 その理由は、同じころ社会面に掲載された「翼賛型の美人生み出す初の研究会」の記事で読み解くことができる。

 「“胸もとゆたかに腰骨大きく”と産めよ殖やせよの国策の線に沿った新女性美創定研究会が翼賛会本部で開かれた」

 翼賛会とは、国民統制機関であった大政翼賛会のこと。そこに前述の竹内、厚生省の官僚、洋画家らが集まり、婦人科医師の木下正一から新女性美10則が発表された。大きな腰骨たのもしく。食べよたっぷり太れよ延びよ。働けいそいそ疲れを知らず……。

 「働く女性、子供を産む女性を美の規準にしたもの」だという。記事によると、大政翼賛会に設置された中央協力会議で、「柳腰撲滅論」が提唱され、この研究会ができた。日本女性の美の規準であった柳のように細い腰を「撲滅」しようというのである。

 来たるべき戦争が、女性を動員する「総力戦」となることは、この時期にははっきりしていた。

 女性に期待されたのは、男性に代わって工場や農村で働き、次代を担う子を産む「総力戦の戦士」としての役割だった。それにふさわしいたくましい女性を美人とすることが国策だった。(敬称略、引用文は仮名遣いなどを改めました)

家庭面と戦争
 1914年4月  「よみうり婦人付録」(くらし家庭面の前身)創設

 1914年5月  「身の上相談」(人生案内の前身)の連載開始

 1914年7月  第1次世界大戦~18年11月

 1919年9月  「よみうり婦人欄」と改称

 1931年9月  満州事変

 1936年2月  二・二六事件

 1937年7月  日中戦争始まる

 1939年9月  欧州で第2次世界大戦始まる

 1941年12月 太平洋戦争始まる

 1942年12月 婦人面と文化面を統合し「婦人文化」面に

 1944年8月  女子挺身(ていしん)勤労令施行

 1944年9月  「婦人文化」面終了

 1945年8月  終戦

 1947年7月  「家庭と婦人」コーナー開始(週1回程度)

 1948年8月  「家庭と婦人」ほぼ1ページ大に

 1949年11月 夕刊で「人生案内」開始

(2010年7月21日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100723-OYT8T00347.htm
(2)産児制限運動 軍が排撃
「産めよ殖やせよ」へ論調転換


 家庭面の「悩める女性へ」(現在の人生案内)で、加藤が東京に開設した産児制限相談所の住所が紹介された。その記事を見た女性たちから殺到した手紙だった。その数754通。直接、相談所を訪れた人は50人に及んだ。

 赤ん坊を背負い子どもの手を引いて相談所を訪ねてくる女性は、「(多産のため)いよいよせっぱ詰まった人ばかり」で、「あらゆる方法、たとえば売薬や民間の言い伝え、婦人雑誌の避妊記事と試しつくした揚げ句、多くはそのために健康を害して最後に訪ねてみえるのです」と加藤は書いている。

 当時、多産による貧困で苦しむ女性は多かったが、避妊具を使うことは不道徳だと考えられていた。加藤はアメリカの産児制限論者、マーガレット・サンガーの影響を受けて、避妊の技術を広げようと活動していた。記事の中で、「(避妊は)有閑夫人の享楽のために悪用されていない」と加藤は反論している。

 このころ家庭面は、加藤に同調する論調が目立つ。1936年にサンガーが来日をした際には、「(産児制限を非難する人は)道徳が何であるか性生活が何であるかを正しく理解してはいない人」という神近市子(かみちかいちこ)(戦後に衆院議員)の評論を掲載している。

 38年2月1日、「産制運動さよなら宣言」という見出しが、読売新聞夕刊に掲載される。

 左翼弾圧事件として知られる人民戦線事件に連座して検挙された加藤が、産児制限相談所を閉じるという内容。

 「時期が時期だけにしばらく産制運動はやらないよう注意したところ諒(りょう)としてくれた。産制運動の根本思想は、あまり感心しない」という特高(特別高等警察)の課長の談話も掲載されている。特高は、社会運動の弾圧を行った政治警察。「時期」とは、前年の37年に日中戦争がはじまったことを指す。

 加藤の検挙を境に、家庭面の論調は、「産児制限反対」に転換する。38年2月15日には「産児調節はなぜ悪い?」という東大動物学教室理学士の論文が掲載される。記事には、サンガーの顔写真が添えられ、「サンガーイズム(産児制限)の最も大きい弊害は、知識階級ないし中流階級に容易に広がって、国家の中堅たるべき人々の人口増加を低下させることです」と理学士は説明する。「国力を現す列国の人口状態」の見出しが躍る。

 39年2月には、「産めよ殖やせよ見本帖(ちょう)」の連載が始まる。10人以上の子供がいる家庭が次々と紹介され、12人を育てた与謝野晶子も登場する。

 39年6月の2面には、「国家総力戦の戦士に告ぐ」という陸軍のパンフレットの要旨が載る。「産児制限及び晩婚を排撃し人口増殖をはかる」

 結婚と出産を軍が指導する恐ろしい時代となった。(敬称略)

<引用者注:写真の下の説明文>
1935年9月22日、読売新聞に掲載された広告。夫の友人から贈られたコンドームが何か、妻にはわからないという内容。避妊具がある程度普及していたこと、女性は避妊の知識を持たないとされていたことがわかる 「(手紙が)あふれ出るポストを見て何かはじまったのかと思った」。1934年(昭和9年)5月13日の読売新聞家庭面(婦人面)で、加藤シヅエ(当時の名前は石本静枝、戦後に衆院、参院議員)が書いている。


(2010年7月22日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100723-OYT8T00384.htm
(3)母子手帳「お国のため」
「人口戦」へ 優先的配給

昭和戦争期、産児制限(避妊)が禁止される一方、母子保護のための福祉政策が導入される。

 現在に続く制度としてわかりやすいのが、母子健康手帳だ。妊産婦手帳の名前で1942年(昭和17年)に始まっている。

 「妊産婦を守れ! それは女性の切なる願いでありました。妊産婦手帳が実施され米英撃滅の長期戦下に妊産婦保護の輝く一歩が踏み出されました」と同年7月14日の読売新聞家庭面(婦人面)の記事「お国のために強い子を」に書かれている。

 当時、我が国の乳児死亡率は欧米諸国に比べてきわめて高く、低下させることが急務と言われてきた。妊娠を届け出制にして、健康診断を行うことで、母子の死亡を防ごうと妊産婦手帳ができた。

 「国民の義務だと思って(妊娠を)届け出て、国家と協力して立派な子どもを育て上げましょう」と記事は説明する。

 その後、妊産婦手帳をめぐる記事の見出しを追っていけば「手帳はまもなくお手元へ 一般市民が率先して妊産婦をいたわりましょう 優先買い物を白眼視するな」「産婦、乳児にせっけんを特配」「特配は必ず申請する 妊婦と育児用の物資」

 この手帳があれば、妊産婦は優先的に食料や衛生用品の配給を受けることができた。しかし、肝心の受診のほうはおざなりにされていたようで「物資の優先的配給だけでなく 受診に重点をおけ」という記事も掲載される。

 出産、家族をめぐる制度で、実は戦争中に始まっているものが少なくない。41年に閣議決定された「人口政策確立要綱」には、「家族の医療費、教育費などの負担軽減を目的とする家族手当制度の確立」「保健所を中心とする保健指導網の確立」など、現在にまでつながる政策が盛り込まれている。

 42年12月には「人口戦に挙がる凱歌(がいか)」の見出し。「人口戦」とは、子どもを産むことを戦争の一形態ととらえる恐るべき言葉だ。すやすや眠るかわいらしい赤ちゃんの写真の横に「かくてわれらの戦力は無限である」。子どもを戦力と見ている。

 43年2月にも「人口戦にも凱歌(がいか)」の見出し。「国民が米英の謀略、出産忌避の迷妄を打破し、伝統的な子宝思想に還(かえ)った」という内容。産児制限はついに敵国の謀略となった。

 実際のところ、出生率は1940年から回復傾向にあったが、42年以降は若干低下し、44、45年は混乱の中で統計すらとれない状態になった(『厚生省二十年史』)。

 「厚生省や国民健康保険がつくられ、国民の健康に関する制度の準備ができるのが日中戦争以降の時期。人口政策もこの時期にはじまる。妊産婦手帳は健康な子どもを産ませるための手段だった。産む産まないに国家が介入するという考え方も、現在につながっている」。荻野美穂・同志社大教授は指摘する。

(2010年7月23日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100724-OYT8T00228.htm

(4)勤労賛美 工場に動員

「適した仕事」は単純作業

日中戦争以降の読売新聞の家庭面(婦人面)には、女性の勤労を賛美する記事が数多く連載された。

 「必勝の戦いにはまず弾薬だ!」と弾丸工場で働く女性を紹介する1939年(昭和14年)7月の連載「興亜娘夏姿」。「興亜」とは「アジアの勢力を盛んにする」という意味の当時の流行語。

 41年3月の連載「職場の姉から」は、機械工や飛行機の客室乗務員として働く女性が、若い女子に向けて「ものをつくる喜び」「来たるべき時代の良き母となるために」などと心構えを諭す職業ガイドになっている。

 太もももあらわな女性炭鉱労働者が登場するのは41年8月の「持場に汗する」。42年9月の連載「働く秋のたより」では、広告折り込み会社や製紙工場、放送局など様々な職場で働く女性を紹介している。

 大正時代から現在に至るまで、家庭面がこれだけ働く女性を称賛した時代はない。

 戦争で徴兵が進み、労働力不足が深刻化する中、それまで男性の職場だった分野に女性を動員する必要に迫られた。

 43年には販売員や車掌など17職種への男性の就業が禁止され、女性に代わる。同じころ、各地で女性の勤労奉仕団体「挺身(ていしん)隊」が組織され、隊ごとに工場労働に就いた。約20万人が動員されたといわれる。44年には通年での学徒勤労動員が始まり、高等女学校(ほぼ現在の中学、高校に当たる)の生徒らが軍需工場などで働かされた。

 しかし、戦前の日本は、階級社会だ。中・上流階級の女性は働かないものだという価値観が根強かった。44年の段階でも、「女は働かぬものだ。働くことは卑しいのだという考え方」があると家庭面の記事にある。

 女性を動員するためには、この価値観を打ち砕かなければならなかった。家庭面が「女性の勤労は尊い」と繰り返し強調したのは、そのためだ。

 女性を動員するため、この時期、「女性の仕事」も創出された。

 戦後に読売新聞婦人部記者となった小川津根子(78)は44年10月、愛知県の豊川海軍工廠(こうしょう)に動員され、弾丸の製造に従事した。女学校に入学して半年余り、まだ13歳だった。

 「工場で割り当てられた仕事は、来る日も来る日も信管のサイズをゲージで測るという、単調で単純な作業だった」。この単純作業は、戦時下の女性労働を象徴している。

 厚生省は39年に通達を出した。女性を重工業で働かせる際にふさわしいのは〈1〉比較的単純簡易な作業〈2〉手指を主とする作業〈3〉半熟練的作業または非熟練的作業――とする内容。男性熟練工が一人で担っていた作業を細分化し単純反復作業に改め、「女性に適した仕事」としたのだ。

 戦時期の女性労働は、戦後の女性の職場進出につながった。同時に「女性に向くのは、単純作業」という男女差別も作り出された。(敬称略)

(2010年7月24日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100727-OYT8T00181.htm
(5)男女の賃金格差 固定化


「同年齢男子と比べると二、三十銭の開きがあります」。1941年(昭和16年)4月の読売新聞家庭面に、小学校卒業後すぐに工場に就職する未経験工の初給賃金について、解説した記事が載っている。

 男子の場合は12歳が一日60銭なのに対し、女子は55銭と、初任給に格差がある。昇給にも露骨な差があるが、「ご家庭でもあらかじめ知っておくのが便利です」と当たり前のように書いている。

 女性労働の現場では、男性との間に賃金格差が設けられていることに対して、不満がくすぶっていた。40年9月のコラム「女性春秋」では、婦人運動家の山川菊栄(戦後に労働省婦人少年局長)が「女はただ女だという理由だけで、初任給も、昇給率も男より低い」と憤っている。

 男性に代わる労働力として動員しておきながら、なぜ女性は低賃金だったのか。

 その理由は、厚生省労務官の佐藤富治が43年ごろに行った講演で明らかだ。

 「女子は家庭における所得の主体ではなく、主人の所得によって家庭は維持されるという原則からも、たとえ女子の勤労成果が男子と同様であっても、女子に与えられるべき給与は男子と同額であっていいという立論にはならないのであります」

 39年末ごろから、読売新聞には「子宝手当」「妻子手当」などの記事が頻繁に登場する。妻子を養う夫に企業や役所が給料を増額するという制度で、「配偶者手当」「家族手当」として現在まで続く。

 40年には所得税法が改正され、所得税の扶養控除が妻の分も認められた。

 「妻と子があれば月収82円で無税、独身者なら月約2円(の税金がかかる)。人口増殖、結婚奨励時代にふさわしい」。同年3月の家庭面の解説記事にある通り、扶養控除拡大は人口政策の一環だった。

 「家族単位の給与体系は、日本の労働者が伝統的な家族制度の下で、安定した家庭生活を営むことができるようにすることが狙いだった。裏返せば、扶養される女性は低賃金でいいという考えとなる」。筑波大の佐藤千登勢准教授は指摘する。

 (敬称略)

(2010年7月27日 読売新聞)




http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100728-OYT8T00231.htm

(6)「母性の涵養」労働と直結

1943年(昭和18年)12月、読売新聞家庭面に、挺身(ていしん)隊員として働く山脇高等女学校(東京)の生徒の手記が掲載されている。

 「女性よ職場へゆこう」と呼びかける記事の中で、女学生は記す。「国のために働くことと、女の道を修めることが一致するところは職場を除いてはない」

 戦時下、国は女性に対し、働くことと産むことの両方を求めた。矛盾する課題を両立させるため「労働を通じて、母性を涵養(かんよう)する」という、戦時期独特の論理が生まれる。

 家庭面でも「母性の涵養」論は繰り返し強調された。41年2月に9回にわたって連載した「女性の厚生施設」では、合唱や演劇、体操、茶道、裁縫などを楽しみながら女性工員が働いている、と紹介している。写真には、かっぽう着姿で料理を学んだり、和室で生け花を楽しんだりする女性工員の姿。「労働と女の道を修めることが一致」している様子が強調されている。

 同じ月の「婦人特集」面では、「よき妻へ、よき母へ女工さんを育てよ」という大特集を組んでいる。女性として初の内務省工場監督官補になった谷野せつ(戦後に労働省婦人少年局長)が「女工の寄宿生活を生活訓練に利用して、主婦、母として完成を目指す」よう訴えている。

 43年6月の家庭面でも、谷野が「勤労こそ嫁入りの教養」と強調。「働かせず家においた方がよい所へ嫁にやれる」という考えを「間違っている」と断じている。

 関西大の豊田真穂准教授は「戦時中、国は、女性としての美徳と労働を結びつけ、家庭が本分だとされてきた女が働くよう、価値転換を図った」と説明する。

 こうした「母性の涵養」論は、女性労働者の保護を要求するための根拠ともなった。戦時下、谷野ら労働官僚のグループは女性専用の休憩室や健康診断、婦人科医の配置などを工場に求めた。さらには、男女同一賃金の目標をかかげ、戦後に労働基準法の制定で実現している(『婦人工場監督官の記録』)。(敬称略)

(2010年7月28日 読売新聞)





別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100804/1280892436

こちらは性暴力被害当事者ふくめ、性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

大切なのは、声をあげていくこと。あげつづけていくこと。

私のブログは、被害直後の方が、どのくらいかどうかわからないけれど、見ていらっしゃる可能性がある。
でも、直後の方には合わないとも思う。私は被害を受けてから十数年たっているのだから。
自分の被害直後のことを思っても、その後数年間のことを思っても、そう感じる。


最初、このブログをたちあげたときは、被害者のプライバシーを守らない、性犯罪被害者の実名を、裁判員候補者全員に知らせるということで驚いて、それでたちあげた。情報提供できればいいなという意味もあった。
その後、いろいろな人が問題認識してくれて、大きな流れとなって。
私は地方に住んでいることもあって、その中核には今あまり関われないので、細々とできることをやっている。
地方だから何もできないわけではない。大ごとにしないで、個人として話をしやすくもある。根気は要るけれど。

いろんな人の意見があって、いろんな人の立場もあって、私一人で勝手なことはできない。ただ知っていること、意見を求められたら言うけれど。
何しろ政治は全く性暴力に見向きもしない。利権がないと動かない。
だから世論を高めるしかない。痛感した。


また、ブログをはじめて、こんなにも世間は意識が低いのかと愕然とした。
もう慣れたけれど。あまりにおかしい。おかしな文化の中に私たちは生きている。
だからなんとかしなければいけないと思った。
世論を底上げしなければ、なんとかしろという外圧を作らないと、政治は動かないから。


そういうこともつくづく感じた。


それに、被害者がひとりで苦しんでいるというのも、前にもまして、実感を持って、よくわかった。
適切な支援を受けるのは難しい。


結局は、司法を変えないと変わらない。
でも、司法の限界、司法のおかしさを知っている人ほど、出てこれない。


傷つけられた回数が多いほど、記録に残っているほど、復讐される恐れ、また特定され二次被害三次被害を受ける恐れがある人ほど、出てこれない。
理解されにくい状況ほど。何か特殊な事情を抱えている人ほど。簡単に特定されるおそれがある人ほど、出てこれない。


どちらがきついとかそういう、傷の比べあいではない。
本人にとっては苦しいものは苦しい。他人がジャッジすることではない。



私は被害者の中でもずっと孤独だった。
特定されて、その後とても怖い思いをした。さらなる犯罪や性犯罪のターゲットにまでされた。
ようやく安心して暮らしているときも、被害事実を周囲に知らせると言われて脅迫もされた。
でもそういったことをした人たちは野放しだ。被害者は嘘つき扱いされる。
ひどいことをしてきた人の肩書き、職業。そういったもの「だけ」で被害者の言うことはまともに信じてもらえない。


ただ安心して暮らしたいだけだ。人間として扱って欲しいだけだ。
おかしいことはおかしいと言いたい。それを認めて欲しい。
おかしさを、間違いを指摘した方に、被害を受けた方に、黙らせ、我慢させるのは間違っている。


権利を主張することをよしとしない、我慢を美徳とする日本の文化は、強い者にしか都合のいい社会でしかない。



埋もれてる声は沢山ある。
私自身、自分の言うことを信じてもらえなかったらどうしようとおそるおそる話し始めた。
でも、自分もそうだった、と、男女関係なくそういう声がでてきた。私などよりきつい思いをした人は沢山いる。
自分の経験の中でも、傷つきが深いほど語れない。まだまだ、もっと、語れないほどの思いはある。



私の場合は、直接被害よりも、二次被害三次被害のほうがきつかった。
セクハラまがいの性的なセカンドレイプとかそういうことではない。
それもあるけれど、もっとちがう、制度的なことだ。
こうしたことは報道されないし被害者しか知らない現実だ。
あまりに加害者は守られている。被害者意識をこじらせていると言われようがなんといわれようが、事実だ。
自分だけの問題ではない。個人的な恨みと思っているのなら大間違いだ。
もちろん未消化な思いはある。誰でもそうだろう。自分の問題を抱えていない人などいない。


性犯罪は社会的犯罪だ。次々と被害者を出していくだけだ。
今まで常識だと思っていたことに、疑いを持って欲しい。本当にそのままでいいのかと。
実際に、今は当たり前に使われている遮蔽やビデオリンクも、違憲ではないかとされ、特例でノック事件で使われてから、今のように定着するまで6年以上もかかった。細かい点では他にも沢山ある。


他国と比べても、日本の刑事訴訟システムのおかしさは際立っている。まさに絶望的といえる。
加害者にとってだけでなく被害者にとっても拷問の制度だ。
いくら世界から指摘されても無視している。報道さえされない。
被害者の人権なんて何も考えられていない。
いくら司法が被害者のためにあるのではなくても、社会の治安を維持する法治国家であれば、もっと変わらなくてはいけないはずだ。


それに裁判のことは、私の罪だと思っているところもあり、語ろうにもなかなか語れない。思い出したくないと脳が拒否反応を示す。
まだ心の準備ができていない。まだその時期ではない。
敵視され、信頼できない相手には余計に、心の中の深い部分まで、深い傷つきまで、話したくない。


訴えて裁判をして、こんな社会に住んでいたということが戦慄だった。こんなにも悪意にみちた、まちがっている社会だということを、知らずにいた。
そして自分はまだましな方だったと知ったとき、もっと絶望した。目の奥がちかちかするような激しい怒りにおそわれた。
まだ自分だけが、運悪くというほうがましだった。真実はあまりに絶望的だ。


声をあげられるという条件もある。たとえば私が今働いていたらできないだろう。もっと症状が悪かったときにはできなかっただろう。
今でも書いていて頭痛吐き気がすることも多い。わかりやすい身体症状だけでなく、ひどいフラッシュバック、過覚醒、うつ、といった症状におちいることも多い。


でも、声をあげていくことで、なんとか救われることもある。そうじゃない、そうじゃないんだ、と、言うこと。それを理解してくれる人がいること。聞こうとしてくれる人がいること。
それだけで救われる。
そういうのを見て、思い切って、自分の経験を話してくれる人もいる。


これも、今まで声をあげてくれた人がいたからできたこと。
その道すじを受け継いでいかなくてはいけない。あまり「~べき」という言葉は使いたくないけど、ここではあえて使う。


今まで声をあげてくれていた人たちを否定なんてしていない。感謝している。
ただ、私はこうだった、その現状は本当はこうだよ、というのは、なかなか出てこない。
自分だけがそうだったのかもしれないと思うし、自分が悪かったのだから仕方がないとも思うからだ。
なによりもう傷つきたくないという思いが強い。
理解されにくい、信じてもらえないようなことほど、出てこない。多くの人に傷つけられた人ほど沈黙する。


私は声をあげられるまで、十数年かかった。それでもまだ、傷つきが深い部分ほど語れない。
今まさに、とても重い後遺症で苦しんでいる人は、とても声をあげられる状況にない。
でも、その人たちが、話したいと思ったときに、否定されたり信じてもらえない、はては黙れという圧力をかけられるのはあんまりだ。
話すことは、重荷を離すことでもあるのだから。よけいに追いつめないでほしいと思う。


もう私は、仲間たちに死んで欲しくない。
それが、私の罪の意識、あとすこしだったのに、私の頑張りがたりなくて実刑にできなくて、多くの被害者を出した、自殺する人もいた。犯行手口はより巧妙になり、その記録は今もネットに出回っている、という罪の意識だけではない。
それも大きくて、そこを考えざるを得ないことをしつこく言われると、いくら私にはどうしようもなかったと言われても、自分でもそう思っても、心がついていかない。とても苦しい。辛い。


なんでこんな社会なんだろうと思う。
絶望する。
でも、それに逃げていて、目を背けていた。何年間も。かかわりを持ちたくなかった。自分のことだけで手一杯だったから。
でも何も変わらなかった。何も分かっていない。何も知ろうとしない。
被害者がどういうことで困るのか、どういうことをやめてほしいのか、どういうことを必要としているのか、何も知られていない。


お願いだから話を聞いて。こういうことが実際におきているということを知って。
目を背けないで。耳をふさがないで。真実を知って。
そして考えて欲しい。
力を貸して欲しい。
そういう思いで今こうして書いている。


なかば絶望しながら。ときには折れそうになりながら。
自分の身も守らなくてはと思いながら。もういっそ全てをぶちまけようかとさえ思うときもある。



とにかく声をあげていくことが大切だ。
そしてつながっていくこと、励ましあい支えあっていくことが大切だと思うから。



黙らせようとするのはやめてほしい。
たとえそのつもりはなくても。それは結局、加害者に都合のいい社会を維持するだけだ。




「沈黙をやぶって 子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言+心を癒す教本」という本がある。
日本で初めて、性暴力被害当事者たちの声をあつめ、出版した本だ。出版は1992年だそうだ。
それから20年。いったいなにが変わっただろう?すこしずつ変わってはいるけれど、根本的なところではちっとも変わらない。
被害者を黙らせ、加害者に都合のいい社会というのは、ちっとも変わっていない。



http://www.tsukiji-shokan.co.jp/mokuroku/book/6704n.html から一部引用 (強調は引用者)


性暴力が他の暴力形態と異なる特性のひとつは、そこにまつわる秘め事=沈黙の匂いです。「誰にも言うなよ」と加害者が強いる沈黙。被害者が守ろうとする沈黙。そして被害者が語れない環境をつくり出している社会全体が培養する沈黙。この三者が堅固に維持する「沈黙の共謀」こそが性暴力のきわだった特性です。この「共謀」から脱落して沈黙を破った被害者は加害者からの仕打ちのみならず、社会からの冷酷な制裁にさらされなければなりません。
 「あの人がそんなことするはずないでしょ」と信じてもらえず、たとえ信じてもらえたとしても「犬にかまれたと思って忘れなさい」とたいしたことではないとみなされ、さらには「あんたが誘ったんじゃないの?」と逆に罪の責任を着せられてしまう。
 だから被害者は黙ってしまいます。被害者が黙っているかぎり加害者は安泰です。社会は何事もなかったと装って、幸福な家族を、安全な日本を演じつづけることができるのです。こうして「沈黙の共謀」は維持され、性暴力が日常的にくり返されていくのです




沈黙をやぶって―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言 心を癒す教本(ヒーリングマニュアル)沈黙をやぶって―子ども時代に性暴力を受けた女性たちの証言 心を癒す教本(ヒーリングマニュアル)
(1992/11)
森田 ゆり

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こちらの本館は、被害当事者をふくめ、性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。







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    プロフィール

    てん

    Author:てん
    メール:

    (※★→@で送信可)
    itisnot_yourfault★yahoo.co.jp


    性被害にあって十数年たちます。
    刑事裁判経験者です。

    二次被害三次被害等、過酷な経験をし、性被害の後遺症もところどころありますが、それでも、わたしは生きています。今は、生きていてよかったと思います。

    だから、同じ被害にあったあなたたちに伝えたい。
    あなたは何も悪くない。どんな事情があったにしろ、あなたは悪くないのです。どんな特殊性があったにしろ、望みを捨てないでほしいのです。

    悪いのは加害者であり、無理解な社会です。あなたは、何も変わってなどいない。とても素敵なところをいっぱいもっている、素敵な人のままなのだから。


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