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限界を感じる、そして行動する

※フラッシュバックするかもしれない内容が含まれていますので、読む読まない含め、体調にご注意ください。
 


別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100129/1264745707

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性暴力被害特集 : NHK教育「ハートをつなごう」  

本日と明日、NHK教育で「ハートをつなごう」で性暴力被害の特集が放送されます。

放送時間
1月25日(月)、26日(火) 午後8時~8時29分

再放送 
2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分~1時49分


予告のハイライトで父親から性的虐待を受けた方のインタビューが
少し放送されたそうです。


http://www.nhk.or.jp/heart-net/hearttv/より転載

性暴力被害
教育テレビ 1月25日(月)、26日(火) 午後8時~8時29分
再放送 2月1日(月)、2日(火) 午後1時20分~1時49分

『ハートをつなごう』ではこれまで摂食障害、自傷癖などさまざまな依存症に悩む人たちの声を取り上げてきました。
その背景には何があるのか。生きづらさを切々と訴える多くのメールにある共通項があることに気付きました。
それは“性暴力被害”の経験があるということです。
“信頼していた友人からレイプされた。”
“子どものころ、父親から性器を触られた。”
“職場の上司から毎日、セクハラを受ける。うつになった…。”
最近の調査だと女性のおよそ8割が被害を受けた経験があると言われています。
男性も決して少なくないそうです。
被害を受けた人たちは何に苦しみ、何に悩むのか。
彼女・彼らを支えるために何が必要なのか。
二日にわたり、勇気を出して出演してくれた4人の被害者の方たちと話し合います。

※お寄せ頂いた声を元に、2月下旬に反響編を放送する予定です。(1/26追記)



https://www.nhk.or.jp/heart-net/form/hearttv.html
からメッセージも送れるようです。個人名など必要なようですが(仮名じゃだめなのかしら)。

↓に一部引用しました。   ※詳細は上記サイトをご覧ください。

性暴力被害は女性の8割、男性も2割が受けたことがあると、それぞれ調査があります。
特別なことではない、とても身近な、そして傷が深く長く残る体験です。
さらに、誰にも話せず、一人でかかえこむことが多いといいます。
そこで番組では、性暴力被害にあった方や側で支える人の体験を募集しています。
どのような被害を受け、なにに悩み、どのように傷と向き合ってきたのか、聞かせてください。

性暴力被害はセクハラや痴漢、レイプなど性的に嫌だと思った体験を言います。
例えば…
「子どものころ、知り合いの男性から性器を見せられた」
「高校生のとき、電車の中で痴漢にあい、通学経路を変えた」
「上司や同僚からセクハラを受け、耐えきれなくなり退職した」






貴重な情報を、コメント欄でMARU様からお知らせいただきました。
MARU様に心より感謝いたします。
私も見ようと思います。再放送の日になってしまうかもしれませんが。

ご覧になられた方、感想など交換できると嬉しいです。


別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100125/1264410433

こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

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別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100124/1264318687

こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

 
 
 
 
  
 

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性犯罪の公訴時効に関して

マスコミでは殆ど取り上げられていないのですが、先月、公訴時効に関して性犯罪も対象にするよう、性暴力禁止法をつくろうネットワークが要望を出したそうです。
取り上げたのはNHKと東京新聞のみです。


「置き去りにされている犯罪被害者 ― 性犯罪被害者」のエントリで書いたように、
性犯罪を裁判員裁判の対象にする割には模擬裁判さえしていない状態で組み込み、そのわりには時効に関して全く置いてけぼりで、また置き去りになっているわけです。
心身にこれだけダメージを与える犯罪にも関わらず、とても適当な扱いで、重大事件として扱ってないのです。


公訴時効に関してはパブリックコメントも募集していたので、なんとか書いて出したかったのですが、
わたし自身、時効に関してうまく考えがまとまっていないのと、個人では名前電話住所等が必要なのと、時間的な制約や心身の不調もあり、ほんとうに残念ながら無理でした。

私の心身への影響、人生への影響という点で考えると、被害の影響が完全に消滅するというのは難しく、性被害を受けた自分を完全に捨てることはできず、そういった悲しい面と共存していくしかないのです。
ただ私は、形としては刑事裁判という形で、はなはだ不本意ではあるものの判決が出ているので、時効について本当の意味で語れないと思います。

犯人が捕まらず時効を迎える。犯人が誰かさえ分からない。訴えたいと思ったときにはとっくに時効で納得いかない。
そういった声を多く聞きます。
できればそういった声を反映させたかったのですが、自分の言葉で語れず、またどなたか窓口になってくれる方を探す気力もなく、時間切れとなってしまいました。

今回の公訴時効の件で、残念ながらひとりでは限界があるな・・・とつくづく思いました。


それぞれ経験も思いも違うとは思いますが、わかちあって、支えあって、いつか要望書やパブリックコメントなど出せるようになりたいと思っています。
できる人が、できるときに。無理のない範囲で。
あまり拘束力がない、したいときだけ参加するというようなグループをつくれないかな、と思ったりしています。
やはり当事者の声というのは大きいようですから。

伝えていきたい気持ち、経験。きっといろいろな思いがおありだと思います。
今回の公訴時効にかぎらず、お話したいことを、お話したい分だけ、
教えていただけるととても嬉しいです。(もちろん個人情報は伏せてください)


あちこちで言われて、そして多少実感もしているのですが、たしかに無理をすると倒れます。
歯がゆいですが、ゆっくり進んでいくしかないというのは本当なのでしょう。


被害者当事者の声を届ける体制作り。
これを目標にしたいです。




東京新聞の記事を以下に載せますのでご覧下さい。
(画像アップロードのやり方がわからず見づらくなっていて申し訳ないです)
※2度クリックすると見やすくなります。





別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100120/1263963642こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

性虐待の加害者は身近な人

セクハラは、上下関係を利用して起きる。
加害者にとっての“オンナとしての魅力”が同じでも、彼らは自分より上の立場の相手には、セクハラをしない。

それと同じように、
性虐待も、上下関係を利用して起きる。

身近な大人。
家族はもちろん。指導者、つまり教師やなんらかの教える立場の講師・コーチ。近所の人。親戚。
聖職者による犯罪も、実は日本でも多い。
もちろんこども同士の性犯罪もある。
残念ながら身近な人物こそ危険だという認識を持つべきだ。


虐待家庭や、ひとり親家庭。
なんらかの事情のある機能不全家庭。
性被害を受ける被害者には、そういう背景を持つ人がとても多い。

それは、そういう背景があると、加害者がとても近づきやすいからという側面もある。
口実として二人きりになることがとても容易だ。
何か問題があると当然悩みもある。
職業としては、ふだん関わらない人も関わることになる。カウンセラーや医者、弁護士、行政職員、施設職員など。キリがない。
そういう事情につけこみ、二人きりになる状況を容易につくりだすことができる。たとえば教師による個人面談など。
本気で心配しているように見えて、そして途中までは本気で心配していても。―計画的なのが殆どだとは思うが。
最初からか途中からかの差はあっても。性の対象として見る大人が多すぎる。


特に、なんらかの暴力を受けて育ったこどもは、めまぐるしく変化する暴力加害者を知っている。
優しい時もある加害者を知っている。
だからこそ混乱する。
そして、自分の感情を否定されて育ってきたために、自分を大切に思えていない。
自己肯定感が低い。自分の感情を尊重されたことがほとんどない。
だからこそ、自分の感情を感じとることも、直感を信じることも、とてもむずかしい。
(これは大人でも同じで、そういったことができるようになるには、訓練が必要だ。)

そういう訓練が不十分なのに、身近な大人だからといって、職業だけで判断して頼るのを推奨するのは極めて危険だ。

たとえ優しい人に見えても。
優しい人だと思っていたのに、実は性虐待者だったということに陥ることが多い。
そして、加害者の巧妙な操作により、口止めされる。
自分は愛されているのだと思わされたり、特別な存在だと言い聞かされたりもする。
もしくは、自分には何か嫌なことをするけれど、多くの人に信頼され慕われているのを見ると、自分が間違っているのかという意識に捉われる。
それこそが加害者の狙いで、他の人の前ではいくらでも「ふつうの人」を装うことができるのだ。

愛情にうえ、愛されていることを欲していること、を利用されて近づかれることも多い。
愛されたいと思うのは悪いことではないのに、それさえも被害者のせいにされてしまう。
性の意味がわかっていないことを利用され、
されたことの意味がわかるころには、加害者はもうそこにはいない。


身近な大人だからといって、無条件に、教師や指導者の立場の人物を信じるのは無謀に等しい。
なんの審査もなく教師になっているのだ。(他の職業にも言えることだが)
彼らは、こどもに近づきやすいからという理由で、そういう職業に就いている。
真面目な人物とそうでない人物を見極めるのは難しい。たとえ人生経験の豊富な大人でも。
まさかあの人が。そう思われる人が性虐待をしている。
同じ人物が、何十年も。
訴えれば被害者が困ることを利用し、発覚しにくい状況を利用して。

教師による犯罪が多すぎるのは当たり前だ。

特に、こどもに対して性的な感情を持つことをタブーとさえせず、後押しする文化があり、その傾向は年々高まっている。


最近、教師による性犯罪があとを絶たないということで、東京都が、教員免許発行時に、犯罪歴について書面で提出することを義務付けることを検討しているということを知った。
今までしてこなかったこと自体がおかしい。発行するときだけでなく、毎年チェックをしてほしい。
もちろん、全都道府県で。
法曹も、医者も。全ての公務員も。それこそ、挙げていけばキリがないけれど・・・。そうすることで防げることも多いはずだ。

http://sankei.jp.msn.com/life/education/100104/edc1001040131000-n1.htmより転載


刑罰歴の審査を厳格化へ 教員免許発給で都教委


 東京都教育委員会が教員免許を発給する際、過去の刑罰歴の有無について本籍地の自治体が発行する公的な証明書の提出を求める検討に入ることが3日、分かった。昨年、執行猶予中の男性(25)が不正に教員免許を取得し、大田区の区立小学校で臨時教員として学級担任になっていた事案を問題視した。教員免許発給時には過去、禁固刑以上に罰せられたことがないとする宣誓書の提出が求められるが、真偽は申請者の自己申告のため、都教委は審査の厳格化を図りたい考え。都教委によれば、制度が導入されれば全国初。

 横浜市でも昨年4月、女子中学生の着替えを盗撮して逮捕された同市立中学の男性教員が、採用試験を受けた平成14年に別の性犯罪で執行猶予中だったことが判明。関係者によると、大田区の男性臨時教師も性犯罪で執行猶予中だった。

 教員免許は一般的に大学の教育学部などで教職課程を修めると都道府県教委から発給される。教員免許法では禁固刑以上(執行猶予中を含む)に処せられた者の取得を禁じているが、過去の刑罰歴は申請者の自己申告で判断され、「性善説による発給制度を改める以外に対策はない」と関係者は指摘する。

 都教委では現在、正教員採用候補者選考の合格者にのみ、本籍地の市区町村から刑罰歴を記載した証明書を提出させている。しかし、男性のように臨時教員や非常勤講師の経歴詐称は見破れず、今回の問題も男性が10月に正教員候補者選考に合格して露見した。

 臨時教員は、病欠や妊娠出産などで学校を休む教員の穴埋めのため短期採用されるケースが多いため、時間的制約から「採用時に煩雑な手続きを行うことは現実的でない」との声が大勢を占めているという。

 20年度の教員免許発給数は都内で4万1614人。都が発給した教員免許を“証明書”に塾講師や家庭教師をする者も多い。学校以外でも類似の問題が起きた場合、都教委の教員免許への信頼性が揺らぎかねないとの指摘もあり、幹部は「都が全国の先鞭(せんべん)を付けるべき」としている。

 高橋史朗・明星大教授は「団塊世代の退職に伴う穴埋めのため、臨時教員、非常勤講師を大量採用しないと学校が回らなくなっている。そのため臨時教員や非常勤講師の採用が野放しともいえる状況で、質の低下は否めず、今回の問題も起きた。教員免許の発給を含め、何らかの新しい対策が不可欠だ」と指摘している。



※このエントリは、教師による犯罪を主に念頭において書いたので、カバーしきれていない不十分な点があると思います。不快な思いをされた方には、申し訳なく思います。いま、余力があまりないです。




別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100119/1263869669

こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方のみに限定させていただいています。

人は信じたくないものは信じない

性暴力被害者むけに相談を行っているところは少ない。
他にもアクセスする可能性のある場所というのはあるのだけれど。

そういった人たちのレベルの低さにうんざりする。
かなりストレスフルだ。
被害者であることを特に言っていないのだが、他国のデータを「こんなに多いはずないよね」と平然と言っている人を見ると唖然とする。
内閣府のデータも見ていないのだろう。

そういった人は、言っては失礼だが、勝手なきめ付けで申し訳ないのだが、
セクシャルな対象とされて困った経験がないのだろうと思う人に多い。

そんなひどいことが起きているのか、という驚きは、現実をつきつけてもなお、否定したがる人が多い。

すぐとなりに被害者がいる。
その可能性にすら思い至らないのだ。

よほど「私は性被害にあっています」といおうかと思うことが何度もある。
だんだんと、世間の無関心、興味関心を持ちたくない人に、苛立ちを感じる。

性被害の事実を知るつもりもないのなら、女性問題に関わっているのは何故だろう。
結局は自分の心に向き合えていないのだ。
DVくらいならできるかしら。
そういう意思が透けて見える。

本気で女性問題に関わるつもりならば、性暴力の問題は避けては通れない。
その覚悟がないのなら、その仕事をやめればどうかとさえ言いたくなる。


被害者であることをあきらかにしないと、事実を伝えても、「貴方がそう思うのを押し付けてはならない」となる。
被害者であることをあきらかにしても、こういう人たちは「たいへんだったのね」と表面的な寄り添いで終わりだろう。そして「どう接していいかわからない」と、煙たがるようになるのが手に取るようにわかる。


なぜなら本気で関わるつもりがないからだ。

同情なんていらない。
ただ事実を知ってほしい。
できれば一緒に考えてほしいけれど、それが無理ならば、せめて事実を受けとめてほしい。

それを言っても、そういう人たちはきっと「被害者最強」「被害者だから恨みつらみが激しい」と言うだけだろう。
私の前では言わないにしても。

そう言いたくなる自分の気持ちに向き合えていないのはどっちなのか。
知りたくないものを否定し、そして見てみぬふりをしてきた罪悪感からか。
相手がより正確な情報を知っているということへの嫉妬からか、自分が上に立ちたいというプライドからか。
被害者は弱い存在なのだと決めつけ安心したいからなのか。


無関心と否定は、実は、隠蔽に加担しているのと同じだ。
それを痛感し、どうしたらいいのか、私は頭を抱える。

本気で話せば分かってくれる人も中にはいる。
セクシャルな対象とされたことのない人はわからないかもしれないが。
(どうもそういう人は、セクハラ=モテ意識、というものが見え隠れしてしまう)


たぶんこの人は何らかの性被害を受けている、という方も中にはいらっしゃる。
性暴力の支援者の中には、性的な被害の当事者の方も実は多い。
とはいえ、女性はほぼ誰でも性被害をなんらかの形で受けてはいるのだが。


だが、表立ってはそう声をあげない。
今の私のように。


ああ、私はどうやって進んでいけばいいのだろう。

結局は立場を明らかにしないとまともに聞いてもらえない。
でも、そうすることで失うものが多すぎる。
一線を画されてしまう。

加害者が刑務所にいる間にだけ、たとえば生活圏でないところで話をしにいく、ということも考えた。


私は被害に遭ってから、回復してきた今でも、
どこか人とのかかわりの中で、一線をひいてしまっている自分に気付く。

結局はひとごとだから。
ほかの人にとっては。
それを目の当たりにされるとつらいのだ。

苛立ちは、無関心な世の中に対して感じることで、より増幅される。
性暴力を滅多にないものとしたがる人たちは、性暴力被害者を「とても珍しい不運な目に遭った人」として、断絶することで自分を保とうとしている。
そういう人にいくら一生懸命言っても、相手が感情的になるだけだ。


私は自分の気持ちではなく、事実を伝えている。
それすらも、そう受け止めてもらえないのなら、どうすればいいのだろう。
自分のためではなく、他に傷つく人を増やしたくないだけだ。
自分におきたことはもう、どうしようもないのだから。

とても孤独を感じる。
きっと一生、この孤独感はきえないのだろう。
そういう自分とうまく付き合っていくしかない。



女性問題に関わっている人に対して思うことを書いたので、「女性問題」としていますが、性暴力は性差別によりおこるものだと私は思っています。
男性性被害も、性差別ゆえに、ないものとし消されてしまうのだと思っています。


本来、性暴力は、男性サバイバーからのメッセージ
HEART様が「性犯罪者は職業選択の時点から計画的であり、回避できない場所と相手を選び立場を利用して行われる理性的なものであり、性犯罪は男女の問題ではなく人間対人間の問題だと理解すべきだ」
と語ってくださったように、

人間の問題、社会の問題なのです。
性犯罪は、社会的な犯罪です。


別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100118/1263793921
こちらは、性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

ゆずれないものを守る

自分のゆずれないもの、相手のゆずれないもの。
両方を守ることは、簡単なようで、実はとても難しい。


痛みはその人のもの。
その人にしかわからないもの。
他人がその痛みの軽重を決めることはできない。、     
他人が決めるとき、その人の痛みがその人の痛みでなくなり、ただの押し付けになってしまう。

怒りを感じることと、怒りを表現すること、ぶつけることは違う。
怒りは状況を変えたいという前向きなエネルギーであり、悪い感情ととらえる必要はない。
罪悪感を感じることもない。怒りを感じるのが当たり前の状況は、たくさんある。
そして、怒りの裏には、実は、悲しみ、不安、焦り、恐怖、寂しさ、などの感情が隠れていることが多い。
それを感じとれると私は少しは楽になるのだけれど、そんな余裕さえなく反応してしまうことがまだまだ多い。

反応ではなく、対応をする。
これはとても難しい。

人間ができていない私には、怒りをぶつけず相手を責めないよう心掛けていても、ついしてしまうことがあるのだ。
人を傷つけたくはないのだけれど、きっぱり線をひかなければならないとき、ついきつい口調になりがちだ。
相手がかっかしているとこっちもかっかしてしまったりして、結局泥仕合、ということもあった。
なれていないので余計にむずかしい。
失敗を重ねながら、学んでいく。四苦八苦しながら、学び続けていくのだろう。
そして間違いを認める権利ももちろんある。そしてそれは義務ではない。
そういうことを実感すると、私はだけれど、自分の気持ちに素直になれた。
怖がらずに感じとれるように少しずつなったということだろうか。もちろんまだまだだけれど。


I メッセージで話すことの大切さ、というのは、まさにこれを言っているのだろう。
私はこう感じる、と、自分に焦点をあてる。相手ではなく。
同じことを言っているようで、大きく違う。

相手を主語にするとき、それは決め付けであり押し付けになってしまいがちだ。
「私は・・・だ」と感情を語るとき、その感情を否定することにつながりにくいが、
「あなたは・・・・・・だ」には、「私は・・・・ではない」という反発がかえってくる。
相手の立場に立って考えると、当たり前のことでもある。


決め付けることは、感情ではなく“考え”。「あなた」ではなく、「わたし」の考え。
「あなたは・・・・・・だ」
「あなたの言動は・・・・・・だ」

「・・・・・・」には、「わたし」個人の考えが入ってしまう。主語は「あなた」であるのに。
それは一般的なものと思っていても、その一般的とされる価値観自体、「そういうものだ」とマジョリティの巧妙な策略により、そう思わせられているだけかもしれない。

価値観とは、自分にとってゆずれないもの、守りたいものだ。
そしてそれは、人それぞれの経験によってつくられていくものだから、まさに個別的なものだ。
でもそれが自分の価値観として語っているつもりであっても。
自分の内面が欲しているものに気付かず、“こういうものだ”と信じ込まされているマジョリティの価値観の形をとって語ったとしても。
どちらにしても「・・・・・・すべき」という押し付けになってしまう。
「あなたは」が主語なのに、「・・・・・・だ」というところに、自分の考えが反映されている。

それを押し付け「・・・・・・べきだ」となってしまうとき、それは相手を自分の思い通りにすること、支配することにつながってしまう。意図していなくても。
そして“一般的な価値観”というのは、マジョリティに都合よくつくられたものになっている。
マイノリティの存在を認めず、個人を大切にしない文化であればあるほど。


わがままなことと、限界を設けることは違う。
なんでも無防備に引き受けることは、搾取されることと等しい。
納得しているつもりでも、本心からでなければ、いつか心は疲弊し恨みがたまる。
その疲弊さえ感じないよう洗脳することが、気付かないうちに小さい頃から社会構造として行われている。
儒教的な価値観であるイエ制度、家父長制、母性信仰という形で。

自分にできることとできないことを見極め、限界を設ける。
限界を超えた要求をされたら、「NO」と言うことが自由にできる世の中になってほしい。
自分を攻撃する相手にまで我慢して身を差し出し、犠牲となる必要はないのだ。


感情にいいも悪いもない、「正しい」感情なんてない。
それを初めて聞いたとき、目から鱗が落ちたような気がした。

上述したように、怒りの感情の裏には、悲しさや寂しさ、恐れなど、さまざまな感情が隠れていることが多いとも知った。
怒りは、今の状況が嫌だという気持ちの表れでもあり、変えていきたいという前向きな力にもなる。
そしてそれはそのとおりだと思う。

思うに、怒りの感情とうまく付き合うことが、わたしたち日本人は特に下手だ。

こんなことで怒ってはいけない、みっともない、大人気ない・・・そういったメッセージに囲まれて育つ。
自分の感情を大切にしてもらえない。
育てる側が自分の気持ちを大切にしていないからだ。
怒り方やその度合いまで、周囲が決めたものでしか認められない。許されない。
自分の感情をあるがままにストレートに表せない。


小さい頃から、何か違和感を感じても
「そういうことは言うもんじゃない」
と、親から、年長者から、指導者から・・・・・様々な「上」の人間たちによってたしなめられる。
そして、自分の感情が信用できなくなる。

自分の感情より相手の感情を優先することが美徳とされる。
それは実は、大人たちにとって、上の人間にとって「都合のいい」人間をつくられているのと同じなのだが、それは巧妙に隠される。
つまり支配であり抑圧なのだ。
「我慢は美徳」という、つくられた一般的に共有されてしまっている価値観は、極めて支配者に都合のいい手段だ。


たとえば、「いい奥さん」という言葉に反映されるように、社会構造として支配者である方に、被支配者は「都合のいい」ことが美徳とされているのも、いい例だ。


我慢は美徳、という日本の意識そのものを変えていき、自分はかけがえのない存在と認識すること。
これは重要なことだ。

そして、かけがえのない存在というのは、弱くてみっともないところも含めて、という意味であり、
ただむやみに自分を崇拝し自分を尊大な存在と思うこととは違う。
それは単なるうぬぼれであり単なるナルシズムでしかない。自己愛は、失敗体験を認められず、失敗から学ぶこともできず、自分は悪くない相手が悪いという思考しか生み出さない。
それと自己尊重とは違うのだ。


日本人は、議論というものを小さい頃からしない。
議論の習慣なく育つので、NOを言うことにも言われることにも慣れていない。

NOは、一部に対してNOであり、全否定ではない。
でも、それが全否定のように、宣戦布告のようにとられることが多い。

私にとってはNOだけれど他の人にとってはNOでないかもしれない。
とはいえ、譲れないところにはNOはやはりNOである。
それは信念であり、揺るがせないものだからだ。絶対に譲れないもの、価値観なのだ。
だからといって、全ての人にとっても、あなたにとってもNOであることを強要しない。
自発的に納得し自分の考えに賛成してくれるのなら、とても嬉しいけれど、本心では納得していないのにとりあえず表面上は合わせられると、なんだか馬鹿にされているような気がしてしまう。不安にもなる。
同情なんていらない。理解しよう、知ろうとしてくれることが一番嬉しい。

被害者はかわいそうな存在だから同情しろ。
被害者の言うことに対しては全て支持しろ。
そんなことは私は思っていない。

あまりに守られすぎると、なんだか落ち着かないくらいだ。
納得できなければそれでいいのだ。


それぞれの考えを大切にしてほしい。
ゆずれないものを、この人は傷ついているからあわせてあげようと抑えると、それがたとえ表面上であっても、いつか疲れてしまうと思う。
その結果、いつか大きく決裂したりするほうが、私はずっと悲しい。
それまで本気で向き合ってくれずごまかされていたような気持ちにさえなってしまう。
でも、これさえも、私の願望であり私の希望なので、それを相手に押し付けることはできないし、したくない。
ただ、私はこう思っています、と伝えることしかできない。

被害者の話を全て支持する必要はないし、
被害者のいうことを理解してくださるからといってその全てを支持する必要もない。
理解してくれる方々が皆すべて足並みそろえる必要も当然ない。
実際に、理解があると私が判断している人たちの中にも、いろいろな立場の人がいるし、反発しあっている人たちもいる。
でもそれは彼ら彼女らの間の問題であり、私がどうこういうことでは、もちろんない。

もちろん被害者同士だっていろいろな立場があり考えがある。
いろいろな人が発言しやすいような環境ができればいいなと思う。


全ての人が全ての考えを一致し共有するというのは、どんなに少ない人数であっても、無理な話だ。
たとえ似通った経験をしていても、難しい。それは身を持って経験している。
それはカルト集団のようになってしまい、怖いことでもある。
そういうことは私は望まない。

いろんな人がいろんな立場から発言している中に、でも私はこう思う、ということを構えずに伝えていきたい。
そして、それはその人に対する全否定ではないので、そこを気をつけながら伝えていきたいと思う。
そうすることで、では私はこう思う、とまた別の誰かが発言しやすくなればいいと思う。
無理のない範囲で、できれば構えずに応答してほしいと思う。
どこで食い違いがあるのか、おたがい知らない情報もあるだろうし、そういったことを意見交換していくことで、どうすればいいのか、新たな視点が開けることもあるだろう。


思いっきりマイノリティの立場であると自覚している身としては、ほんの一部でも、理解してくれるだけで、考えてくれるだけで、知ろうとしてくれるだけで、とっても嬉しいのだ。今まではそれさえもできなかったのだから。
特に、その人の核となるような信念であったり、よりどころとしている政治的な信条であったり、いろんな立場の人が大切にしているものを否定し、その人を変えていくということは考えていない。
どうすればもっと知ってもらえるのか、理解してもらえるのか。
あなたのゆずれないところを大切にしてほしい。その上で、できるときに、できることをしてほしい。
ときおり休みながらも、私は情報を発信し続けるから、気が向いたときにでも読みに来てくれると嬉しい。
耳を傾けてくれるだけでも、私にはとっても嬉しいことなのだから。


いま、ここに書いたことは、まだまだ私もできていないことだらけだけど、
頭に少しでも入っていることで、生きやすくなったのを実感しているので、書いておこうと思った。
私はこう思っています、という意思表明でもあるし、気をつけていこうという自分への戒めでもある。


こういったことを教えてくれた本や、実践している方々に感謝してやまない。


たくさん人に傷つけられたけれど。
そのぶん、人のありがたみがわかった。
人と少しずつでもつながることの大切さがわかった。

マイノリティであることを自覚している身としては、ほんとうに、少しでも理解してくれるところがあれば嬉しいのだ。

だから、人と関わり続ける限り、生きていく限り、難しさにふうふうしながらも、少しずつ進んでいきたい。



<関連記事>
わかってほしい気持ちの行方


別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100114/1263411583
こちらは、性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。

風邪をひきました

でもなんとか大丈夫です。

持てる者、持たざる者

書きたいエントリが山のようにありながら、言葉にすることが難しく四苦八苦している。

毎年この時期、私は不安定になる。
ここ数日は、人が多い場所を通るのが嫌で、ひたすら家にいる。

そう、明日は成人の日。
綺麗な振袖を着た若いお嬢さん、スーツだったり服装はいろいろだけれど若い男の人ももちろん―たくさん見かける日。

見るのは辛い。
手に入らなかったもの、だから。
服装だけでなく写真でもなく、そういったものが象徴するもの、が手に入らなかったということをまのあたりにされるから。

でも、よかったね、とも思う。
あなたたちは、愛されているよ、と。幸せでいることを羨みながらも、よかったね、と思う。そのまま幸せでいてほしい。
もちろん複雑な事情がある人もいるのだろうけれど、きれいに振袖を着て、ヘアスタイルを整え、なじみの友人たちと盛り上がっている人たちは、きっと愛されている環境の人が多いのだろう。

誰もお祝いしようとしてくれないのに、あえて全て自力で手配し、実際にしたよ、という人は、私の知っているごく狭い範囲の話になるが―いない。


それまでもずっと
「誰のおかげで食べられると思ってる」「誰のおかげで学校に行けると思っている」
「小学生でも新聞配達している子だっているんだ」「中学を出て働いている人だっているんだぞ」
と言われ続けていた。

これは「お前なんかの為に」という意味を含むので、絶対にこどもに対して言ってはいけない言葉だ。
こどもをつくったのは親の考えでおこなったことであり、きょうだいをつくったのも自分たちであり、こどもを養うにはお金がかかるのが当たり前だ。
こどもは自分はいてはいけない存在なのかと、ひどく自己肯定感が低く育つ。


決して贅沢はできなかったけれど、
(たぶん収入としては一般より多い家庭だったと思うが、なにしろ一人で稼いだつもりで一人であぶくのようにお金を使う人が私の父親だった)
それでも、人並みの生活はさせてもらっていた。物理的に、という意味だけれど。
ただ、私はひたすら我慢し、手間もお金もかけさせてはならないということをひたすら考えていたので、ほかのきょうだいに比べて簡単に必要なものを親に言えない子だった。多くの子が親に送り迎えしてもらう場合でも、二時間くらいなら地図を見て、歩いて行っていたり帰っていた。
それでも、傍目からすると、周囲の友達と大きく差をとるようなことはなかった。そのかげには私のたったひとりの努力と忍耐があったのだけれど(そして忍耐しているという自覚さえなかった)。
それは確かに恵まれていたと感謝すべきことなのかもしれない。


でも、自分にはないのだ、ほかの人がもっているものをもたないのだ、
ということを、はっきりとした形で突きつけられたのが、
成人式というイベントだった。

うえのきょうだいのときは、親たちは張り切ってずっとずっと前からいろんな情報を集め、振袖をあつらえ、写真を撮り、それをあちこちの親類に配っていた。

自分にもそうしてもらえると思っていた私はきっと甘かったのだろう。
自分も同じように愛されていると―そう信じたかっただけなのかもしれない。

ひとり、自分の親にも他のきょうだいにも気を遣い、家事をこなす私は、きっといつのまにか、「家族」からいちだん低い存在になっていたのだろう。
「お手伝いさん」であり、「言うことをきく便利な存在」であり、軽んじても不満を持たない存在、となっていたのだろう。そして、言うことをきかないということは許されないということに自然とつながっていっていたのだろう。

私の気持ちを大切にされたことなど、なかった。
今も、ない。


うちのなかできつい思いをしていることは限られた友人にそれでも簡潔にしか言えていなかった。暗い話題だから。
それでも物理的に何か自分だけないものはなかったので(お小遣いから出していたものも多いが)高校までは同級生とこんなにも差があると思っていなかった。
だが、いざ家から離れて暮らしてみると―私がどうやって暮らしているのかさえも興味がないようだし、帰省してもひたすら働かされる。ひとりだけ。
不満なら帰ってくるなと言われ、出て行くと今度は激怒する。

離れることで自分の世界をそれなりにつくることもできていたし、やはり家はおかしいのだという思いを強めつつあったし、おかしな家族に、どんどんとうんざりしていっていた。

帰省して家族と過ごす時間を楽しんでいる友人たちを見て、ああ自分は違うのだ、と悲しく思っていた。

それでも、そういうめにあわされるとは予想外で、うちのめされた。
そうか、誰も私の成人式なんて気にかけていない。

これが、持てる者と持たざる者の差を大きく痛感した、初めての出来事だった。
その衝撃は大きかった。

自分にはないのだ、愛してくれる存在というものが。気にかけてくれる存在というものが。

これを認めるのはとてもきついことだった。


では、
ないのならば、つくっていくしかない。
人は一人では生きてはいけない。
必要なものを必要と、ほしいものをほしいと、認識する。
最近になってようやくそう思うようになった。

結局は離れていく存在であっても、そういう運命だったのかと、結局はかなわないのかと嘆きながら、失いつつも、そのときは助けられたのだからと感謝の思いで憎むことはできない。

憎んだことももちろんあるけれど―憎むというのはエネルギーがいることだ。
許せない、悲しい、弱い自分を許すことで、楽になれる。

被害に遭うことで、それまで直面しなくて済んだ問題、被害に遭わなければここまでつまびらかにならなかった問題が大きく浮上し、荒波となって、うねりとなって襲いかかる。


私からは話を聞こうとせず、あろうことか勝手な嘘ばかりの情報を信じ、加害者の親族、加害者の弁護士から聞かされることを信じ、私を罵り。
「迷惑」「恥ずかしい」と叫ぶ。
私が少し前にあげたほんのわずかなプレゼント、それを見つけるのに苦労したのに、平気で突き返し送り返されたときには、ただ涙しか出なかった。それもほんの少し。心がとても乾いていて、たくさん泣くこともできなかった。

おそらく被害に遭わなくても、何らかの形で衝突はしただろう。その素地はじゅうぶんにあった。
だが、ここまでひどい形では、弱っている人を、崖のふちをさまよっている状態の人を、
まさか家族がさらに崖から突き落とすような真似をするとは、予想もつかないことだった。
ほんとうに助けてほしかったときに、助けてもらえなかった。絶縁された。


なんどもなんども、失ったものを嘆く作業をした。
さんざんグリーフワークをした。
するたびに回復したという自覚はあった。
それでも。
この時期はつらい。

被害に遭った時期の記念日反応もつらいが、こっちもつらい。
失ったもの、いや、もともと持たなかったもの、それが、家族からの愛情。
それを、持っている人たちとの差を、再度感じる日。
若者たちの幸福そうな笑顔と、それを祝う大人たちの笑顔。
それがあふれる一日。

きっと私には永遠に手に入らない、家族からの愛情。


もう裏切られるのはいやだと思いながら、今日ひとりで過ごしていることの意味を考える。
やはりこの人との生活ももう駄目なのかと。
私はどうやってもひとりなのだと。

人間はしょせんひとり。
それはわかっているつもりであっても、いざつきつけられると。
そしてそれがこの時期だと、とてもつらい。とても示唆的だ。

今日は泣こう。たくさん泣こう。





裁判官はこういう認識

ここしばらく、「じえい」論議に疲れて、他の記事がなかなか書けていなかったので、
少し自分のコントロールというかペースを取り戻す意味もかねて、
気になった報道についてエントリをあげておこうと思います。

知れば知るほど、つくづく、日本の司法制度は腐っていると思います。
日本は刑事訴訟システムの後進国と既に90年代に台湾に指摘されているのですが、本当にそのとおりです。
そして性犯罪が最も最悪です。
さらに言うと、そのおかしな法定義と判例を勉強してきた司法関係者が最も感覚が変です。

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20091217ddm041040078000c.htmlより転載 (以下、強調は引用者による)


検証・裁判員制度:判決100件を超えて/1 更生できるの

 ◇「刑務所でどんな生活を」…裁判官「視察行ったことない」
 ◇大半が刑務作業「教育時間、不十分」


 東日本にある裁判所の評議室。被告は法廷で起訴内容を認めていたが、反省の言葉はなく円卓を囲む裁判員6人の意見は「実刑」で固まりつつあった。裁判員が「刑務所では、どんな生活をするんですか」と尋ねると、裁判官は言葉に詰まった。「(視察に)行ったことがないので、あまり詳しいことは……」

 判決後、裁判員の一人が取材に答え、「裁判官なら知っておくべきじゃないのか。刑務所に入って本当に被告は更生するのかな」と首をかしげた。

 女性を襲ってけがをさせたとされる別の事件の裁判の評議でも、裁判員から被告の男性に実刑を求める意見が相次いだ。だが、ある裁判員は裁判長から説明を聞くと、刑務所で服役しても刑務作業に費やされる時間が多く、「(矯正)教育の時間がほとんどない」と感じたという。

 「外でいろんな人の目が届く中で反省させた方がいいんじゃないか」。裁判員の発言を受け、裁判長は保護観察制度について説明を始めた。評議は執行猶予と保護観察を付ける意見でまとまった。

   ◇

 毎日新聞の集計では、裁判員裁判で執行猶予付き判決を受けた被告のうち、保護観察が付いたのは69・2%。判決宣告後の裁判長による説諭でも、裁判員の意向を酌み「きちんと仕事を見つけ、他人の役に立つことをしてほしい」(東京地裁)などと「判決後」を意識した発言が目立つ。

 職業裁判官による裁判ではどうか。検察の統計では、例えば08年に強盗致死傷事件の1審で執行猶予判決を受けた33人のうち保護観察が付いたのは7人(21・2%)。単純に比較できないが、裁判官以上に裁判員が保護観察を重く見る様子がうかがえる。

 ある裁判官は「あまり更生という視点で保護観察付きの判決を考えたことはない。国の監視が付くから、『野放し』となる普通の執行猶予とでは雲泥の差がある。実刑と猶予のはざまぐらいの事件で使うべきだ」と打ち明ける。さらに、「量刑は犯した罪の重大さに応じて科すのが基本」と述べ、裁判員が更生を重視する様子に、戸惑いもにじませた。

   ◇


 「頑張ります。ありがとうございました」。10月8日、横浜地裁。放火事件の裁判員裁判で保護観察付きの執行猶予判決を受けた無職の男性(21)=確定=は、弁護人に頭を下げ、夕刻に横浜拘置支所を出た。しかし、保護観察所に寄ることもなく、姿を消した。

 「自分に負けないよう立ち直ってほしい」「皆が彼を支えているという思いが伝わったと思う」。同じころ裁判員を務めた人たちは記者会見で元被告の更生を期待する言葉を口にしていた。男性の所在は今も分からない。

 被告の反省は本物か立ち直りは可能か、見極めは難しい。犯罪白書によると、保護観察付き判決を受けた3割近くが毎年再犯で執行猶予を取り消されているデータもある。

 「横浜のような事例は少なくない」。東京都で36年間、保護司を務める宮川憲一さん(72)は制度の不十分さを感じつつ、それでも裁判員制度で保護観察がクローズアップされるようになったことを歓迎する。「罪を犯した人を、社会全体で支えるという本来の更生保護の考え方が浸透することを期待したい」=つづく

   ■

 司法の大変革とされる裁判員制度は、8月の第1号から、判決が100件を超えた。市民感覚は反映されているのか、審理は十分か、負担は……。課題を検証した。

 ◇保護観察付き猶予取り消し3割

 保護観察対象者が所在不明になった場合、保護観察所は裁判所に「引致状」を請求し、強制的に連れてくることができる。保護観察所が捜し出すほか、警察が保護観察所の依頼を受けて捜し出し引き渡すケースもある。犯罪白書によると、08年に保護観察付き執行猶予となったのは3691人だったが、再犯で1022人、保護司との定期的な面接を怠るなどの順守事項違反で103人が執行猶予を取り消されている。




裁判官って、何のために存在するのでしょうね?
犯した罪の重さに乗じた刑を言い渡すだけで、その後は知らない、って、全ての国民に迷惑です。
もちろん被害者もですが加害者にとっても、です。

自分の仕事の意味がわかっているのだろうか?
いえ、わかってないからこういうことを言うわけです。
人を裁くということへの覚悟もなければ信念もない、責任の持てないことをしないよう努力する、ということさえしていない裁判官が多いのです。
もちろん全てとは言いませんが。

過去の判例に機械的にあてはめて、検察官の求刑(こちらも判例にならった相場を出す)を8掛けにしたものを判決として、言い渡す。
判決文には、あらかじめ決まっているポイントをチェックして盛り込むだけです。
はっきり言って誰だってできるような仕事です。

被害者参加制度や裁判員制度が始まったのは、表に出ている「被害者のため」「市民参加」という名目だけではないと私は思っています。(これについてはいずれまた別エントリで)

司法の独立、という憲法上の建前がある以上、手を出せないので、検察を通して変えていくしかないのでしょう。
でも何しろもともとが問題だらけで何も進歩せず同じことをたらたらたらたら繰り返してきたので、
新しいことを始めるのが何しろへたくそなわけです。
なので、想定外のことが多すぎる。
性犯罪を裁判員裁判に含めることにしたって、何も考えていなかったわけです。
最悪です。


実は司法関係者はかなり単純な人が多いです。そして性差別意識がとてもとてもとても強いです。
みなさん、どういう人間が、どういう教育を受けて、法曹になるのか、もっと知ってください。
そして危機感を持ってください。
とても安心して暮らすことはできない現状です。


さて、更正について、もう一つ記事を。

http://mainichi.jp/select/opinion/eye/news/20091126k0000m070132000c.htmlより(現在キャッシュのみ残っています 、強調は引用者)

記者の目:裁判員裁判が始まり4カ月=松本光央

 裁判員裁判が始まって間もなく4カ月。法廷での質問や判決後の会見から、多くの裁判員が被告の更生に強い関心を持っていることが分かってきた。そこには「裁く側」の強い責任感が感じられる。しかし、刑務所での生活や出所後の再犯事情について、プロの裁判官たちが裁判員に適切に説明できているかは疑問が残る。今後定着していく裁判員裁判では、裁判員に十分な情報を提供してほしい。そして、「裁かれた後」に国民の目が注がれ始めた機会をとらえ、犯罪者の更生という観点も、国民の司法参加について検証する一論点にすべきだと考える。

 裁判員制度を機に人を裁く難しさを考えたいと、連載「正義のかたち」の取材班の一人として、元受刑者や元裁判官らを訪ね歩いた。

 連載で記事にしなかった元受刑者がいる。殺人などの罪で約10年服役し、昨年5月に刑務所を仮出所した30代の男性だ。中肉中背で引き締まった顔つき。私の質問に時折はにかみながら丁寧な口調で応じる姿に、人をあやめた過去は重ならなかった。しかし、男性は人気歌手グループの曲名を一つ挙げ「この曲を聴くと、相手を刺した感触までよみがえってくる」と語った。事件当時にカラオケで歌った曲だという。その直後、金銭トラブルなどから知人男性をナイフで刺してしまう。

 刑務所の集団室で漫然と過ごす受刑者を目の当たりにした。「ここを出たら……」と悪事を話し合う姿や、仮釈放を狙い謝罪の手紙を被害者につづる受刑者もいたという。「単に社会から一時的に隔離しているだけ。被害者が見たら許せないだろうと思う」と男性は振り返る。

 「自由を奪われた冷暖房機のない刑務所は戻りたくないでしょう?」と私は聞いた。男性も服役中は、なぜ再び罪を犯すのか、信じられなかったと語る。しかし「出所して分かった。のど元過ぎれば熱さ忘れる、です。もう刑務所暮らしは思い出ですよ」と語る。更生を誓う男性は出所後に運送業の仕事に就いたが、知人によると、最近、ささいなトラブルで解雇されたという。

 何人かの元裁判官も、法廷で対面する再犯者に頭を悩ませたと明かした。犯罪白書によれば、07年の刑法犯のうち再犯者は約4割に上る。「事件の報道は判決で終わってしまう。本来大事なのは、それから被告が何年も暮らす刑務所のはずだ」。ある元裁判官は、受刑者の刑務所生活が世間の関心から置き去りにされてきたことをそう表現した。そして「国民みんなで刑罰を考える機会が出てくると思う」と裁判員制度に期待を寄せた。

 8月3日の東京地裁を皮切りに、全国の地裁・支部で始まった裁判員裁判。取材する中、被告の更生を願う裁判員の姿が確かにうかがえる。山口地裁では寝たきりの妻を殺害しようとした殺人未遂事件の公判で、女性の裁判員が被告の夫(64)の事件前までの献身的な介護に理解を示し、「できるだけ人の手を借りて社会復帰してほしい」と語りかける場面もあった。

 被告のその後の人生をどうするのか。選択肢の一つである刑務所では、06年5月施行の刑事施設・受刑者処遇法で受刑者への矯正教育が初めて義務化され、被害者の視点を取り入れるなどの個別処遇がやっと実施されるようになった。また、過剰収容が指摘される中、法務省は07年4月から山口県美祢(みね)市の「美祢社会復帰促進センター」をはじめとする民間の力を活用したPFI方式の刑務所を4カ所開設。初犯など犯罪傾向の進んでいない受刑者を主な収容対象とし、各センターで独自の更生プログラムを実施している。

 しかし、刑務所での生活について裁判所や検察、弁護側が裁判員に必ず説明するわけではないようだ。ある裁判員経験者は毎日新聞の取材に応じ「被告が刑務所でどういう毎日を送るのかを裁判で聞き忘れた。それがいま気になっている」と明かした。その裁判では実刑が言い渡された。

 実刑か執行猶予か。あるいは刑期を何年とすべきかは、多くの裁判員が直面する選択となる。選択の過程で刑務所での暮らしぶりや、社会で更生を図る仕組みについて、裁判員が十分に理解できる運用が必要だと思う。

 プロの裁判官だけによる判決は「求刑の8がけ」と指摘されてきたが、裁判員裁判の判決は量刑判断の振れ幅が大きくなっている。ただ、判決後の会見などからうかがえる「裁かれた後」への関心が、更生や社会性の獲得を狙う「教育刑」の議論につながってほしい。国は刑務所での矯正教育の実態や再犯率などを、裁判員に明らかにしてほしい。再犯者をつくらない仕組みを社会全体で議論するまでに発展すれば、国民の真の司法参加が実現すると思う。(東京社会部)

毎日新聞 2009年11月26日 0時07分




「受刑者の刑務所生活が世間の関心から置き去りにされてきた」と、まるで世間の責任のような発言ですが、刑務所については同じ法務省が管轄しているわけです。
無関係のように言ってますが自分たちの責任でしょう。人事交流もあるのだから。
建前上、裁判官は一人ひとり独立した存在ということになっていますが、実際は法務省の枠組みの中の、単なる慣れ合い組織です。
一般市民のせいにするのはやめてほしいです。

警察はずさんな捜査をし、検察は判例にならって勝てるものしか起訴しない(日本の有罪率は99パーセントというありえない数字です)、
誰もが適当に処理します。流れ作業で誰も責任をとるつもりはないのです。

受刑者のその後はもちろん、他に犯罪をすることで更なる被害者が出るということは考慮していない。だからこそ、性犯罪者は初犯なら執行猶予が当たり前くらいになっているわけです。
そしてとても多くの被害者を出して、ようやく実刑になる。
どれだけ迷惑かければ気が済むのだろうと思います。


ちなみに、性犯罪に関しては、日本は欧米諸国より30年以上遅れているわけですが、
性犯罪者の更正については、他国でも思うような効果があがっていません。
日本はまだきちんとしたプログラムさえもなく、模索中の段階です。

日本の刑事訴訟システムは絶望的です。
急ピッチで正していってほしいです。


<当ブログ内 関連記事>
置き去りにされている犯罪被害者 ― 性犯罪被害者 
注目されだしたから慌てて真剣に更正を考えるらしい
更正、保護観察、再犯対策・・・今更なメモ



※こちらは性暴力に理解のある方、管理人と友好関係にある方に限定させていただいています。
 別館の記事はこちら→http://d.hatena.ne.jp/manysided/20100106/1262737956

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    性被害にあって十数年たちます。
    刑事裁判経験者です。

    二次被害三次被害等、過酷な経験をし、性被害の後遺症もところどころありますが、それでも、わたしは生きています。今は、生きていてよかったと思います。

    だから、同じ被害にあったあなたたちに伝えたい。
    あなたは何も悪くない。どんな事情があったにしろ、あなたは悪くないのです。どんな特殊性があったにしろ、望みを捨てないでほしいのです。

    悪いのは加害者であり、無理解な社会です。あなたは、何も変わってなどいない。とても素敵なところをいっぱいもっている、素敵な人のままなのだから。


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